#練習用

水槽にメダカ100疋飼っています。

静かに 命ある限り あなたも生き続けてください

万葉色紙100枚自筆で

琴弾八幡神社鳥居

大平総理を称える伊藤正義の墓碑句

オリーブの今年の花に去年の実

オリーブの今年の花に去年の実

令=善

彼岸10 首

彼岸10 首 夫婦の名併刻の墓碑多くして人は命を後世に継ぐ 妻併記するはあれども夫併記する墓碑などは見たことはなし 短命の墓碑銘多し長生きをしてすみませんと思ひて巡る 夭折の墓碑銘多しその時の親の心を遠く想ひみる いい人は早く死ぬとは言はれたり我…

簡体字で読む『論語』

花嫁は中国から 10首

花嫁は中国から 10首 満洲の娘が我が家の嫁となるこの三月の早春の頃 中国から花嫁が来るそのための中国語習う付け焼き刃かな 中国は東北地区なりかの満洲哈爾浜の女どんな人かな 開拓団長父はかの地に斃れ たりその身代わりか孫の嫁に来る 日中の友好の…

春の兆し

俳祖山崎宗鑑「一夜庵」

宗鑑の晩年を過ごした一夜庵を見学、観中生が俳句作り(1月16日)

『続・父の帰還』

まずは、既刊『父の帰還』(私家版・2003年発行) 満洲で客死した父への挽歌(供養の書) 大陸に客死せし命蘇り花紅となりて帰国す 雅澄 平成の次の年号「永立」と定めて新作書かむと決意 私小説めかして仮構フィクションの「大地からの帰還」書き継ぐ決…

中国語で祖父母

とわに、もみじのように燃えて萌愛て

いつか散るその日雅(みやび)の心持ち 雅子+雅人

馬琴日記

芭蕉遺体を義仲寺へ

芭蕉は元禄7年10月12日大阪御堂前南久太郎町花屋仁左衛門の裏座敷で病没。 遺体は14日夜間淀川を遡って近江膳所の義仲寺に葬られた。 芭蕉逝きて324年 十三夜

古義庵芭蕉亭

杜麦末裔より頂きし芭蕉かな 古義軒芭蕉庵剣持雅舟

ふるさと「小鮒釣りしかの川」

故里に残る小川の今もあり 父母友がき今はなけれど 雅人 故郷に小鮒釣りし小川あり 時に来りて往時偲ぶも 雅人

剣持芭蕉庵

久しぶり青空見えてうれしかり 剣持芭蕉庵の花々 忘れてならない万葉植物

9月4日の日記20年間

四十年毎日マスを埋めたる日記を見ればその日蘇る

八月末、野の花

事故の道行きすぎ難く秋の草 夏の花受け継いで咲く秋の花

香川県三豊市本山寺境内の拓魂堂

満蒙開拓青少年義勇軍 野口勇中隊長(雅澄父) 奉天にて戦没

「落柿舎」去来の句

。 芭蕉の高弟「向井去来」の発句 京都落柿舎にて求めた絵葉書の紹介 去来 1651~ 1704 蕉門十哲の一人。よく師風を守り、芭蕉の俳諧理論を忠実に整理・祖述した。 『猿蓑』の編者の一人。俳論に『去来抄』『旅寝論』がある。 尾頭の心もとなき海鼠かな…

全国戦没者追悼式に参加

両陛下最後の追悼お言葉賜る 衆議院議長の追悼の辞 祭壇の献花土産に追悼式 雅舟 平成生まれの記者執筆の我が報道

女流作家だった母

信子遺作「岬を越えて」草稿

留魂像(豊浜暁部隊)

豊浜 暁部隊 戦没者名籍 250柱

旅、松尾芭蕉・伊能忠敬

~旅の日に考える~ 芭蕉の師北村季吟と平田正澄は共に近江出身で、雅澄は讃岐に移住してからも季吟に俳諧作品の 評点をお願いしていた。 伊能忠敬は全国沿岸測量、今年210周年。讃岐豊浜では藤村家に2泊。今是さんは12歳だった。 芭蕉は全国を旅しようとし…

さくらのはなびら

遠き日の花びら君が掌に 雅舟

市松人形

いちまはん はるかなる日のわたしです 雅子 ひな人形 勢ぞろいして 古き町

平田風石句碑

白雲の 下に雲おく しぐれかな 平田風石 風石 辞世句