剣持雅澄の名の由来

 

鹿持 雅澄寛政3年~安政5年)江戸時代の国学者。号は山斉または古義軒。

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  •   寛政3年(1791年)4月27日、土佐国土佐郡福井村(現在の高知市)に生まれた。17歳の頃から儒学を中村重蔵に、国学宮地仲枝に学びその学を高めた。役職は家柄が低いため浦奉行下役を任した程度だったが、後に家老福岡氏に認められ、藩校教授館下役、同写本校正係に任ぜられ格式も中士に抜擢された。

 身分の低さで本の入手にも困難した福岡孝則の援助を受け同家の書籍閲覧を許可されたのは幸運であった。雅澄は万葉集を集中的に研究したが、研究目的は古道を求めることで、歌作の参考にするためであった。

 生涯を捧げた著述『万葉集古義』は、脱稿後も半世紀にわたり改訂に改訂を重ね、谷真潮以来の土佐万葉学の集大成であると共に、国学研究の記念碑的存在となった。生前上梓はされず、雅澄の門下生である佐々木高行などから『古義』の存在を知らされた明治天皇が、使者を土佐に遣わし散逸した稿本を集め、明治24年(1891年)に出版に至った。大正・昭和期にも度々出版された。他に動植物を描いた『万葉集品物図絵』がある。

 学問の成長とともに福井の邸宅は国学塾古義軒となり子弟の教育にも力を入れ、また藩政にも参加ししばしば上書して国学を藩校に採用された。また古典の研究を藩の主宰の下で行い、古義軒の塾を藩校の管理下に置き、土佐藩国学の地位向上に努力した。

歌人としての雅澄はとくに長歌に優れ『山斎集』がある。

安政5年(1858年)8月19日没。享年68。