雅翁自伝〈ヒロシマ〉

 当時は原爆が落とされて十年余りで、市内にはバラック建ての家が川端などに多く見られた。ケロイドの学生も見受けられた。「私は大学構内で被爆していますが、物陰にいたので、この通りまだ生きていますよ」と平気で言う漢文の先生もいた。倫理学の森滝一郎先生は原爆実験反対運動の座り込みで有名な教授だった。被爆していて、片眼が見えなくなっていた。物理学の岡崎先生は「森滝先生がいくら座り込みしても、アメリカは実験するのであります」と冷ややかに批判的なことを言っていた。

 市内の平和公園に架かる平和大橋の設計はイサムノグチであるとのことで父と同じ名なので親近感を覚えた。この公園には「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑がある。この文の主語は何か取り沙汰されたことがある。この記念碑にあの眉目秀麗のネール首相が参拝されたことがある。どうしても目の前に見たくて、群衆を押し分けて目の前まで私はその優しいほほ笑みを見た。無抵抗主義ガンジーの流れを受け継ぐ平和主義の、なんとなく私に向けられた優しい視線を忘れることができない。

 平和記念会館での文化講演では、湯川秀樹野上弥生子などの話を遠くから聴いたりもした。学部の講義にはあまり魅力を感じなかったし、苦痛であった。日本文学全集・世界文学全集は一通り読んだ。当たり前のことで、専攻は国語学国文学なので、もうそれ以上は深入りしようとは思わなかった。卒業論文と言えるものは書けていない。教養部の岩佐正先生の指導で「平家物語の女性について書いたに過ぎない。教育学部高校教員養成課程の人たちとほとんど同じ講義を受けたが、自分たち文学部文学科の方は、一般社会への就職へ道は開かれていたが、ほとんどが中学高校教員になった。自分も地元の香川県で高校教員となることに落ち着いてしまう。 (昭和31年4月~35年3月)