香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる。
中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた。
旧制香川県立三豊中学校(第7回)を経て、1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校(第42期)に入校。同期には加来止男がいた。1914年(大正3年)12月19日卒業、席次は117名中66番。1915年(大正4年)少尉任官。
砲術学校高等科及び専攻科を修了後、重巡洋艦「愛宕」砲術長、舞鶴要港部参謀、戦艦「榛名」副長などを歴任した。1937年(昭和12年)12月、大佐進級。「間宮」特務艦長、呉海兵団副長、金沢地方人事部長、厦門方面特別根拠地隊副長兼参謀、広島監督官を歴任。呉海軍工廠総務部長在任中の1943年(昭和17年)5月、少将へ昇進した。
1943年(昭和18年)第六根拠地隊司令官としてマーシャル群島クェゼリン島で指揮を執る。タラワ、マキンを制圧した米軍はマーシャル諸島クェゼリン環礁の占領を乗りだした。 クェゼリンの日本軍は陸海軍合わせて約5000名、ルオット、ナムル島には海軍3000名がおり、これらの部隊の指揮をとったのは、秋山門造少将(海軍第六根拠地隊司令官)である。 秋山が同島に赴任したのは、1943年11月。米軍上陸が明白だったが、独特の地形に阻まれ陣地構築が不完全であった。 すでに、絶対国防圏の圏外であったクェゼリン島には、初めから救援部隊を送る予定はなかった。 秋山は、米軍上陸初日、前線視察のため司令部壕を出たところ米軍の砲弾を浴びて戦死後海軍中将に昇進。
1967年(昭和42年)12月、勲二等旭日章の叙勲が授与された。また、子息の秋山正清海軍大尉は、クェゼリン遺族会をつくり、1966年(昭和41年)遺骨収集を行い、1968年(昭和43年)現地に慰霊碑を建立した。