作家 【高橋和巳】少年時代の戦争体験

 文学に目覚める大切な契機となる疎開期間【三中時代】

 昭和20年3月大阪大空襲で焼け出され、母親の郷里香川県疎開香川県立三豊中学校に転校、終戦後も在学、翌年10月、大阪の焼け跡、今宮中学に復学した。一年半の疎開生活の間に日本文学全集、世界文学全集を友人宅から借りて乱読、作家になる契機となる貴重な期間であった。

  この時の体験は彼の作品には形象化されていない。むしろ、他の素材を借りて、国家社会に背を向けて己が理想に生きる「志の文学」として昇華される。高橋和巳の現代に問いかけるものは?
 高橋和巳家の玄関に飾られていた遺詠を記念に頂いた。この先輩作家を偲ぶよすがとして大切に我が書斎に今も飾っている。仲介になっているその人は、「和巳ちゃん」と呼ぶ。失礼ながら私もいつからか「和巳ちゃん」と呼ぶようになっている。また、父方先祖の墓碑は郷里で私が預かり、供養している。臨済宗金剛禅寺の無縁仏の中にある。
 観一高新聞部の求めに応じて、この一年半の期間を思い返し、原稿を寄せ、昭和四三年一一月、「観一高新聞」第九四号に「無垢なる青春の日々」として掲載された。「私の母の郷里は、香川県三豊郡大野原村大字四軒屋、汽車の駅でいえば観音寺より愛媛県よりの豊浜駅の裏手にあった。県道を迂回すれば駅まで七、八分はかかったが、田圃道を駅の裏へ駆ければ、登校のさいには、その駅で列車がすれちがうせいもあって遠く汽笛の音をきいてから家を走り出ても間にあった。ゲートルに草鞋ばきで踏んだ土の感触はいまも足の裏に残っている。」今の三豊工業高校の建っているあたりを大急ぎで駆けてゆく少年の姿が浮かぶ。
戦争のため、街を焼かれ、人間の醜さを目のあたりにした少年の傷ついた心を讃岐平野の自然が徐々に癒していった。そして、その中で、和巳少年は文学と出会ったのである。同じ新聞の原稿の中で、次のように述べている。「私はよき人々に恵まれた。ようやく旺盛な読書欲のわいてくる年齢、ある友人は父の蔵書をほとんど制限なしに私に貸してくれた。その友人の家の立派な書架が、私の図書館であり、ある意味では、私の今日文学者としてありえているのは、その友人のおかげである。」