夕方五時ころ、高松放送局より菊池寛の『藤十郎の恋』最終場面のラジオ朗読ありて、久しぶりに楽しく聞けてよかった。この小説の末尾は次のようになっている。
『偽にもせよ、藤十郎殿から恋をしかけられた女房も、三国一の果報者じゃ』と、艶めいた京の女達は、こう云い添えた。こうした噂までが、愈が上に、この狂言の人気を唆った。来る日も、来る日も、潮のような見物が明け方から万太夫座の周囲に渦を巻いていた。
弥生の半ばであったろう。或朝、万太夫座の道具方が、楽屋の片隅の梁に、縊れて死んだ中年の女を見出した。それは、紛れもなく宗清の女房お梶であった。お梶は、宗清とは屋続きの万太夫座に忍び入って、其処を最期の死場所と定めたのである。その死因に就ても、京童は色々に、口性ない噂を立てた。が誰人も藤十郎の偽りの恋の相手が、貞淑の聞え高いお梶だとは思いも及ばなかった。 ただ、お梶の死を聴いた藤十郎は、雷に打たれたように色を易えた。が彼は心の中で、
『藤十郎の芸の為には、一人や二人の女の命は』と、幾度も力強く繰り返した。が、そう繰り返してみたものの、彼
の心に出来た目に見えぬ深手は、折にふれ、時にふれ彼を苛まずにはいなかった。
お梶が、楽屋で縊れた事までが、万太夫座の人気を培った。
お梶が、死んで以来、藤十郎の茂右衛門の芸は、愈々冴えて行った。彼の瞳は、人妻を奪う罪深い男の苦悩を、ありありと刻んでいた。彼がおさんと暗闇で手を引き合う時、密夫の恐怖と不安と、罪の怖しさとが、身体一杯に溢れていた。
其処には、藤十郎が茂右衛門か、茂右衛門が藤十郎か、何の差別もないようであった。恐らく藤十郎自身、人の女房に云い寄る恐ろしさを、肝に銘じていた為であろう。