一夜庵と山崎宗鑑

【一夜庵と山崎宗鑑】           
 一夜庵は俳祖山崎宗鑑が晩年を過ごした草庵である。室町末期、興昌寺の住職梅谷和尚を頼って、京阪山崎から移り住んだ。遺筆として、当寺に紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付集め趣意書)徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」の短冊等があり、遺品としては銅雀台の瓦硯、岩床の花瓶・自作の木彫半伽像等もある。句碑として前掲短冊句が一夜庵前に建立されている。
 宗鑑が俳諧連歌師として『新撰犬筑波集』の編集に携わったことはほぼ定説になっているが、その閲歴のほどは定かではない。近江国志那郷(現、草津市支那町)出身で幼名弥三郎範重と言い、足利義尚の右筆となったが、その没後無常を感じ25歳頃出家したと言われる。吉川一郎著『山崎宗鑑伝』によれば、当時宗鑑と名告る人が3人いたと言われ、その区別のしにくいところもある。謡本『百万』の奥書に「天文己亥二月日 宗鑑」とあり、天文8年(1539)頃は生存していたということになる。吉川氏は宗鑑の死没を天文10年7月22日とみなしている。その他諸説あるが、地元観音寺市においては「俳家奇人談」の天文22年10月28日没(98歳)に従い、400年忌を昭和26年10月28日に行っている。現在、宗鑑忌は例年11月3日に行っている。
 辞世の歌として「宗鑑はいづこへと人の問ふならばちと用ありてあの世へと言へ」が伝えられている。滑稽俳諧を事として、深刻ぶらずに生きた宗鑑らしい飄逸の歌ではある。
『滑稽太平記』(延宝末頃刊行)には「宗鑑は長命成しが、廱といふ物を病て」と説明を付けている。また、同書には「上の客立帰り、中の客日帰り、下々の客泊がけ」と庵の前の額に書いておいたと記している。これがいわゆる「上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊まりは下々の下の客」の歌で親しまれる一夜庵の名の由来である。来客の長居を喜ばなかったというのが一般の見方であるが、それでもなお話しこむ客を求めていたのではないかという、うがった見方もある。宗鑑は求めに応じ傭書(頼まれて書を書く)をよくしている。各地に宗鑑流の遺筆が散在している。県下にも少なくとも十数点は遺されている。
 宗鑑没後、一夜庵は荒れるにまかせていたらしいが、江戸時代になり俳人を中心として再興されるに至った。延宝9年(1681)に無妄庵宗実坊が、岡西惟中を仲介として、西山宗因の勧進帳を請い受け、一夜庵造立を企画している。「宗鑑法師勧進帳」は宗因の直筆で、その主旨に賛同・協力し、同門の献句を載せている。3年後の貞享元年には北村季吟の自筆である「一夜庵再興賛」がある。また興昌寺には「一夜庵筆海」という短冊集二冊が保存されいる。約600句が集められている。
  花にあかでたとへばいつまででも一夜庵   西山宗因
  ままよ世は夏も一夜の仮の庵        北村李吟
  松涼し鶴の心にも一夜庵          各務支考
  宗鑑の墓に花なき涼しさよ         高浜虚子
  松の奥には障子の白きに松         荻原井泉水
  浜から戻りても松の影ふむ砂白きに     河東碧梧桐
                    
 現在、観音寺市滋賀県草津市姉妹都市の提携をして、文化の交流を続けている。宗鑑出生の地と終焉の地という因縁によるものである。昭和59年琵琶湖の葦が草津市から贈られ、一夜庵の屋根が葺き替えられた。一夜庵保存会が日本最古の俳跡草庵の保存につとめている。  (一夜庵保存会)