足利義尚の最期

戦国時代の大乱「応仁の乱」の遠因は、足利第九代将軍に予定された義尚の誕生にある。義政と日野富子の間に男子出産が遅すぎて、義視の方が世継ぎにされていたのに、

幸か不幸か義尚が生まれた悲喜劇にある。政務の主導権争いに罪のない義尚はその渦中に立たされる。近江出陣中に病死、急死の死因は謎に包まれている。そこに侍っていたのは近侍の山崎宗鑑とも言われている。宗鑑法師出家の因は、その人生無常を感じてという説もある。それに着目したのが『俳諧の風景』数十年前の拙作である。まことに恥ずかしい戯作。