果たさぬ恋

『一葉の恋』田辺聖子
 
 さすがは女心の微妙さが描ける女流作家だ。文学研究家がたどる作品の論証には留まらないで、中井桃水へのほのかな恋心を憶測して、その深奥を活写している。

 犀利な夏子は、それを察していた。彼女は桃水への恋心が、この世では果たせず、小説にとどめて昇華することになろうと、わが運命のつたなさを考えていた。淋しいことではあるが、いちめん、物語、小説、文章で一つの世界を構築し、夢をみることができるのは、運命が夏子に与えてくれた幸せかもしれなかった。

 しかし、小説を書いて原稿料で生活の糧を得ることができるほど、現実は甘くなかった。
「万骨をすてて市井のりちりにまじはらむ」と決心して日記に書きつけ、晴れ着などすべて売り払い、借金をも加えて商売の元手にした。
 夏子は生き生きした下町で、新しくよみがえった。
 下谷龍泉寺町の吉原遊郭に通じる道に面していた家に住み、少年少女の世界を観察し、人の世の悲しみと喜びに共感をおぼえるのだった。あわいはつ恋、くるしいはつ恋、それらは、あの桃水に対する夏子の思いと同じであった。それを畢生の名作「たけくらべ」に結晶させることができた。
 田辺聖子は万感の思いをこめて、この文章「一葉の恋」を次のように結ぶ。

 けれども、夏子の筆先からは、美登利と信如の初恋が、正太の片恋が、うまれ、それは色あせずとどめられ、すべての人の永遠のものとなった。