蕉門十哲

芭蕉の門人』堀切実
 
 蕉門十哲に誰を擬するかについては、江戸中期から明治期に至るまで、さまざまの説が飛びかってきた。それらの諸説に共通に挙げられるのは、其角・嵐雪・去来・丈草の四哲である。本書では総合的判断でそれらに加えて、杉風・凡兆・許六・支考・野坡・惟然を著者は、「新・蕉門の十哲」としている。共通するものはに何かと言えば、芭蕉と同様、ほとんど隠者的もしくは市隠的な生活を送っている。
 芭蕉が江戸において宗匠として独立したのは、35歳で、その後次々に門弟の数を加えてゆく。芭蕉にとって草庵はなによりも仲間づくりの場であり、行脚は新しい仲間による「座」を形成してゆく有力な手段であった。
 芭蕉は絶えず「新しみ」を求めて、生涯その俳風を停滞させることがなかった。同座する連衆についても、次々と新人を起用し、旧人は思い切って切り捨ててゆくのが、芭蕉の流儀であった。言わば「焼畑農業的座」の変遷が、そこに見出されるのである。
去来抄』などを見ると、それぞれの門人の個人差やその時の状況に応じて適切に指導している。いわゆる「対機説法」である。指導の基本は、弟子の才能を引き出し、長所を伸ばしてやることだった。師たる者の範とすべき点が伺える。
 門人の数は300人とも2000人とも言われる。