讃岐守・大伴道足から浜田恵造まで

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万葉集』の編者は大伴宿祢家持。その縁続きの大伴宿祢道足が讃岐で最初の国司である。文献から見ると、七世紀から八世紀中頃に活躍。『続日本紀』によると、七〇八年(和銅元年)三月十三日の条に国司として讃岐守に任ぜられ、五月には正五位下に叙されている。讃岐国司の任は約六年。最後の記録として七一三年(和銅六年)五月に讃岐の人民の貫籍(本籍地の戸籍)の奏上が見える。道足の父、大伴連馬来田は、弟の吹負と共に六七二年の壬申の乱の功臣として中央で活躍した名門の家系であった。
 その後四十年ほど経って安宿王(あすかべのおおきみ)が六代目の讃岐守になった。この人が『万葉集』に登場する。歌は載せられていないが、同じ宴席にいた主人の安宿奈予麻呂の歌が紹介されている。安宿王の作った歌が巻二十の四三〇一「印南野の赤ら柏はと時はあれど君を吾が思ふ時は実無し」と出ている。ただこの時は播磨国守(兵庫県知事)であったので、讃岐と直接結びつかない。
 讃岐万葉の研究・講読を心がけている者が、これまでぼんやりしていた一件である。万葉に関連するのは人麻呂が沙弥島で詠んだ三首と軍王が安益郡で詠んだ二首だけだと思い込んで、他の歌に目を注いでいなかったが、このたび題詞(歌の前書き)に「讃岐守安宿王」を発見してうれしくなった。このとき安宿王は讃岐守を肩書にしていたが、都にいて任地讃岐に在住していなかったと思われる。国守と言えども、必ずしもずっと任地に住み着いていなかったようだ。
 
   
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