幻影の襞の深さ

『白暗淵 しろわだ』古井由吉
 
 表題作「白暗淵」のタイトルが全てを象徴している。

 高校時代に女教師が『聖書』創世記冒頭の話で「元始(はじめ)」「黒暗淵(やみはだ)」と板書して読んだ時のことを半世紀を経て回想する。小生と著者は同期なので、同時体験できる。小生などつまらぬ記憶しかないが、古井はその教師と視線が微妙に交錯する。ここを捉えなければ、この作品、ひいては「内向の世代」の襞の深さは捉えられていないと言えよう。
 具体的に言えば、こうである。
『聖書』の言葉に「光は暗黒に照る、而して暗黒は光を悟らざりき」とあり「闇はすこしも白まずに、いよいよ深い闇なの」と教師が言うのに、坪谷(著者の分身)は同意できなかった。教師の視線に同感の相槌を打たなかったのである。
 その時の坪谷少年の幻想はそういうありきたりの光・闇の次元ではなかった。
「闇もなければ光も射さず、ただ白かった」そして、いよいよ白く、一匹の羽虫が飛んでいくのを見るのだった。天地の間違いではないかという、大それた妄想のようなものだった。
そして次の含蓄のある一節で本レビューをとどめたい。

「そしてある夜、虫の動きをまた目で追いながら、こんなことがいつまで続く、と訴えるうちに、女教師と目を見交わしたまま、どんな境を越えたのか、唇を寄せ合っていた」