沖縄について語る資格があるか

 我々日本本土に住み着いているものが、沖縄について語る資格があるか。もし、沖縄について語れと言われたら、辞退するのがいいのか。この際、にわか勉強でもいいから形ばかりでも間に合わせるのがいいのか、私には分からない。一旦引き受けたら、少しでも沖縄について自責の念を語るのも、自分のつとめではないかと思う。
 第一には、沖縄基地の負担軽減に真剣にはなっていないことである。ご無理とは思うが、平身低頭してお願いするしかないという。それをせずになんとかなると思ったら、「もう騙されない」という跳ね返りを甘受しなければ、もう収まらなくなっている。島外も県外も国外も引き受けてくれるところはどこもないのが実情だ。基地がある限り、沖縄の戦後は終わらない。
 第二には、平和の礎(いしじ)である。平成7年設立当初は全戦没者234182人の氏名だった。毎年判明する毎に追記していると聞く。ここに立てば、この大勢の数に圧倒され、共に合祀されているということに一体感が沸き起こり、癒され慰められる気になる。これは一面恐ろしいことである。名前だけ記されて、そんなことですまされてたまるか、という気に私はなる。いつ、どこで、どのようにと書かれて初めて墓碑銘になる。名前だけで我慢しろと言ったって、とうてい承服できない。名前の多さに酔ってしまって、そのような不満を言うすべを忘れさせられている、とすればおそろしいことだ。もっと一人一人が知りたい。
 第三には、九条の会だ。この度沖縄南部戦跡めぐりで、九条の会が建てたと記された戦跡が新しくあるのに注目させられた。平和憲法を守り、絶対に戦争を起こしてはならないという信念はこの沖縄に、しっかりと根を下ろしている、と実感させられた。自分が四国で戦場にもならなかったのに安住しているのとは雲泥の差が沖縄にはあるという意識が深くはなかったと恥じるのだった。