借景としての空海の風景

 空海の生まれ育った善通寺山を毎日見て過ごしている。今いる私の書斎から東方二十キロに借景として収まっている。 (中略)

 804年(延暦23)31歳のとき、遣唐使途中、暴風雨にあい九死に一生を得て入唐。この年12月に長安に入った。翌805年、長安サンスクリット梵語)やインドの学問を学習し、青龍寺の恵果から密教の伝授を受けて、真言密教第八祖を継いだ。翌年恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて多くの文人墨客と交流し、広く文化を摂取した。わずか二年で帰国、膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅、その他の文物を日本にもたらした。京都高雄山寺(神護寺)に入り、翌810年、国家を鎮める修法を行った高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏。高野山は、天台宗比叡山とともに平安初期の山岳仏教の拠点となる。京都の東寺を給預されたので、ここを京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努めた。828年(天長5)東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設した。835年3月21日に高野山で入滅。

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