春は動詞である。

 春は動詞である。万物のハル(発る)候であり、草木の芽のハル(張る)時であるからだ。英語で春を表すSpringも、とびはねる(跳躍)という動詞から来ている。その緊張感において共通するものがある。スプリングの方が活発な動きではあるが、日本語の「はる」にもじわじわとふくらんでいく活力が含まれている。内から張りつめていく充実感、その成長過程が「はる」なのだ。多少の違いはあれ、両者はまことによく似ている。

 人生のうったてとして青春はある。幼少期は未生、未明の春以前の時期である。人生では一回だけ四季を経験する。それになぞらえると、五十路を旅急ぐ自分は、秋の中にあると言える。収穫の秋ならいいが、不毛の秋なのかもしれない。それでも、春の心を年甲斐もなく持ち続けているから、始末に負えない。かなえられなかった春の喜び、見果てぬ春の夢を見続けている。業の深さを感じずにはいられない。青春の日に燃え尽きていないだけに、それが秋の日になおくすぶり続けている。遅ればせながら完全燃焼したいところだが、理性に禍されて、張りつめたようなかつての春を呼びもどすことができないのは、秋愁とでも言うべきかもしれない。わびしい限りである。若者よ、春の日には春を満喫しておけ。張りつめた青春を経た者のみに、充実した豊穣の秋が訪れてくる。

 以上の文章は『動詞の相貌』と題する数十年前の随筆集の冒頭である。「歩く」「待つ」「働く」「泣く」など「動詞人生」の相貌を総花式に50羅列した中で「張る=春」を特筆してここに抜粋した。はたして、どなたかの心に春が動詞として躍動するであろうか。