動詞の相貌「遺す」

  随筆 五七六号 (草稿)
    遺 す       
            剣持雅澄
「のこる」「のこす」を漢字で書くのに「遺る」「遺す」ではなく「残る」「残す」と使うのが原則である。常用漢字で「遺」は音「イ」しか認められていないからだ。したがって、「遺族」とは「残った家族」と書くのが正式ということになる、字面の上では「遺った(遺された)家族」であることに間違いない。
「遺産」とは、死者の遺した財産という観念で「残した財産」と書く方が厳密ということになる。
文化遺産」となると、重いものとなる。「前の時代の文化財で、現在に残されているもの(また、将来にわたって伝えられるべき文化)
それが「文化財」として世界遺産にでもなれば、大ごとになる。四国霊場が指定を受けようと動いているが、一山二霊場の我が観音寺・神恵院など身動きが取れなくなる。歩き遍路の通る遍路道は整備するだけでなく、昔の面影に返さなければなるまい。観音寺市文化財保護審議委員の一人としてジレンマに陥っている。
個人の遺産相続に関しては身の周りにいくらでももめごとを知っている。「先生も今のうちに遺言状を書いとった方がいいですよ」とあまり年の違わない教え子の教示を受ける。とはいえ、すぐにその気にはなれないけれど、早晩遺児のためにはそうしておいた方がいいとも思うようになっている。
甘えてはならないが、私は戦争遺児である。
厚生省主催の戦没者遺児として父の戦没地に十数年前訪問している。日本遺族会の団体「慰霊友好親善事業」に参加したのだった。それからも毎年主要戦域に訪問が続いている。旧満州は最果ての北満黒河まで行けるらしい。もういっぺん行きたいが、遺児の中で一人だけ一回しか行けないので、残念である。遺児と言っても当年七十四歳である私なのだが、生きている間、戦没者遺児であることを忘れまいと思っている。それが戦争犠牲者の遺恨であると思っている。
「遺恨」という言葉がふいに浮かんできて、呪詛としての我が人生挽歌譜というテーマ曲が流れてくる。普段は潜在的に奥深く底流しているものだが、ふとした機縁でマグマのように湧出してくるこの「遺恨」とは、何であろうかと考え直すのである。
 天災ならば恨みの持って行き様がないのだが、戦争は明らかに人災、戦争責任が問われる。恨みに報いるに恨みをもってせず、とは誰が言ったか知らないが、恨みを晴らすという報復行為は論外としてその昇華としての平和的人道行為には進展できる。両親そろってすくすくと伸びた周囲の者には羨望もなく、自分は自分の恨みを超越した全き生き方を目指して戦後六十六年を生きてきたように思う。
 恨みは胸中深く抑え込んでいる、この無意識の意識「孤児根性」…『伊豆の踊子』で川端康成が「自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省」をして伊豆への一人旅に出て踊子に出会う、そんな気持ちには共感を覚えてきた我が人生であったように思う。
 ここで「残る」「残す」に触れておかねばなるまい。「残余」「残り物」ということばに象徴される必要以外の余りものという語感がともなう負のイメージがある。いいものを「遺す」「遺る」というプラスにはたらくイメージとは違うものがある。
残業・残留・居残りは正統派ではない。「~のやむなきにいたった」のであって、心ならずもはみ出されたものである。
 前述の慰霊訪問の例にもどろう。瀋陽では我々日本から訪れた戦没者遺児と残留孤児との交流会があって、通訳を通しての会話が交わされた。親捜しに協力してあげたいが、手がかりになる遺品も思い出もなく、やり場のないもどかしさで胸が張り裂けそうだった。運命のいたずらとは、このようなものかと、泪ばかり流していた。
「遺児」とは、親に死なれて、後に残された子どもである。「残留孤児」とは、親が生きているのに残された子ども、言わば親に捨てられた子どもである。自分の意志から残留したのではないのに、惨いことばが「残留」孤児ということばである。
「残留届」を出して残留したのではないはずだ。「残業届」が上司の命令でやむをえず書かされるよりはもっと非情に置き去りにされた運命がそこにはある。
 満州開拓の移民が棄民であったように、残留は放棄と言い換えた方がふさわしいのではないか。残留婦人にはその意志がなかったとは言い切れないが、残留孤児は例外なく、放棄孤児であると私は断定する。
 以上、遺す(遺る)と残す(残る)を対比する形で陳述してきたが、心残りの言い足りないことは後日にまかせよう。