一茶の歳旦吟(観音寺に句碑)

 

    【 一茶と専念寺】   香川県観音寺市

 財田川を隔てて琴弾八幡山の向かい側に専念寺がある。この寺の住職五梅和尚を頼って江戸時代に小林一茶が来ている。一七九二年(寛政四年)と、一七九四年(寛政六年)から翌年にかけての二回である。「寛政紀行」の寛政七年〖歳旦詠〗として「今日立春向寺門/寺門花開清瞰/入来親友酌樽酒/豈思是異居古園」(七言絶句)があり、

    元日やさらに旅宿とおもほへず

以下数句が載せられている。境内にこの発句は句碑に刻まれている。
 三月三日の記事に「ここの専念精舎に住せる五梅法師は、あが師(竹阿)の門に遊びたまひしときくからに、予したひ来ゆ、しばらくつづの旅愁を休むことしばし、更に我宿のごとくして、すでに四とせの近とはなりけらし」とある。
 一茶が専念寺を辞したのは寛政七年三月八日のことであった。碑の裏面には「当寺寛
政年間俳人一茶の長期滞在セシ所ナリ 今其ノ自筆ノ一句ヲ模写拡大シテ碑ニ刻シ以テ往時ヲ追懐ス 現住山上応誉 昭和丁丑(一二年)春日 主唱 一夜庵坐石 松尾明徳」とある。
 ここに滞在していた頃の句に「乞食も護摩酢酌むらん今日の春」がある。弱者へのいたわりの心はこの句にも現れている。それに続く「遠かたや凧の上ゆくほかけ舟」「白魚のしろきが中に青藻哉」は瀬戸の海を詠んだ写生句である。「天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ」もそうであるが、この句は少し面白く構えて作ったものである。
 中国・四国・九州と俳諧行脚の旅を続けていた一茶にとって、讃岐の西の涯「観の浦」は、心の和む安らぎの風景であった。

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 小林一茶が四国への旅の途次、観音寺浦の専念寺に逗留した時、

「元日やさらに旅宿(はたご)と思ほへず」と感謝の句をこの寺に残す。

もてなしの心と感謝の心を大切に生きることを教えられる佳句。

 

苦しむ四字熟語(10 首歌)

志高く掲げて奮闘す【刻苦勉励】【刻苦精進】

【四苦八苦】生老病死に【愛別離苦】【怨憎会苦】など苦界に充満

強敵に勝つため必死の努力する【苦心惨憺】【悪戦苦闘】

油断させ敵を欺く【苦肉之計】過去にありしが今もあるかも

泥沼で炭火で焼かれる【途端之苦】飢餓難民のこと思うべし

復讐という物騒な敵討ち【臥薪嘗胆】今は過去のもの

宗派によれば【難行苦行】勧めない仏道修行はいかなるものか

一茶の句苦もなくできたように見え【彫心鏤骨】背景にあり

楽は苦の苦は楽の元いつの日か【苦節十年】日の目見るかも

肉体の苦労と共に精神の【煩労汚辱】に耐えねばならぬ

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12月2日誕生日の花と花言葉歌句

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12月2日 誕生日の全国35万人の皆さん、おめでとうございます 

       (拙句)早熟のベニマンサクを抱きしめる    雅舟
          
 【花】 マルバノキ(ベニマンサク)(マンサク科)   【花言葉】 早熟

【短歌】 冬晴れのベニマンサクは小さくて少女みたいな真剣な花  鳥海昭子 
             
      別名の「ベニマンサク」の方がぴんとくるでしょう。マンサク
      は早春に黄色い花をつけますが、こちらは晩秋に赤い花を
                      つけます。この花をみると真剣な少女のまなざしを思うのです。
         
【季語】紅万作(歳時記になし) 木の葉散る

【俳句】木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ  加藤 楸邨

    二三子と木の葉散り飛ぶ坂を行く    高浜 虚子

    且つ散りて紅葉筏となりゆくも   有山八洲彦

 【三行詩】万作科丸葉の木属

         地域限定の希少花

     ブラッディ赤紫色

【万葉歌】白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ (巻1ー34)

【12月2日誕生の有名人】
      ジーベル(1817)   島津久光(1817)   由紀しげ子(1900) 
                  高峰三枝子(1918) 多田道太郎(1924)  三笠宮(1914) 
                  旗 照夫(1933) 山崎 努(1936)   太地喜和子(1943)

     ~今日も一日佳き日でありますように~ 

【人生のモットー】四字熟語(10 首歌)

【清風明月】清々しくて風雅なる自然の景色佇まいなり

【行雲流水】自然の移り変わりゆくままに任せる禅僧の如く

【花鳥風月】自然の景色美しい雪月花とも縮めて言える

【明鏡止水】一切の思慮捨てきって澄み切った心『荘子』の言葉

【死生有命】人の生死は天命に任すしかないじたばたせずに

【和而不同】協和はするもいたずらに同調しない『論語』の言葉

【文質彬彬】内と外とが調和して洗練されて飾りけもない

【真実一路】追い求めゆくひたむきな偽りのなき一筋の道

【一期一会】わが生涯に一度だけ主客共にす貴重な出会い

【則天去私】小さな私に捉われず天地自然に身をゆだねること

【不惜身命】我が身や命惜しまずに信ずる道をただひたすらに

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俳祖【山崎宗鑑】の没年

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山崎宗鑑 (掲出の写真は『俳諧名作集(潁原退蔵著))による)
 連歌師俳諧作者。 生没年未詳。洛西山崎(京都府大山崎町)に住したことから山崎宗鑑と通称される。俳諧撰集『誹諧連歌抄』(江戸初期版本では『犬筑波集』)の編者として伝えられ、同時代の荒木田守武とともに俳諧独立の基礎を築いた。風狂・飄逸の人としても伝説化されている。
 宗鑑は一休禅師を敬仰し、延徳三年、大徳寺真珠庵再建に際して一〇〇文を寄進、以後明応二年には五百文、永正七年(一五一〇)には一貫文、さらに享禄三年には入牌料一〇貫文の代りに子庭などの絵を納入している(『真珠庵文書』)。宗鑑が一休に直接参禅したかどうかは不明であるが、一休の自由な考え方が宗鑑の俳諧愛好に精神的なよりどころを与えたものと考えられる。
 宗鑑の没年は、天文十二年(一五四三)八十五歳説(『滑稽太平記』)、一夜庵に没した(『一夜庵建立縁起』)ほか諸説があるが、現在その確証はない。
 自筆懐紙の「風寒し破れ障子の神無月」に描かれた藁屋に独座する老僧の姿は宗鑑の隠棲の様子をうかがわせるが、自ら竹を切って油筒を売ったとか、歳暮に「年くれて人ものくれぬ今宵かな」と詠んで人々の援助を得たなどという清貧の逸話は伝承の域を出ない。宗鑑は『犬筑波集』を数度にわたり書写しており、編者であることはほぼ間違いがない。
『犬筑波集』の成立は享禄末年から天文初年ごろと考えられるが、俳諧の収集はすでに、大永(一五二一~二八)ごろには始まっていたようである。宗鑑を俳諧の鼻祖とする見解は、明応九年(一五〇〇)成立の『竹馬狂吟集』が発見されたので訂正されるべきであるが、「言い捨て」の俳諧を収集し、守武や宗長、のちの貞門・談林に影響を与えた功績は極めて大きい。
(上記『俳文学大辞典』所収「宗鑑(沢井耐三稿)」による)
 (参考文献)
潁原退蔵「山崎宗鑑伝」(『潁原退蔵著作集二』)
吉川一郎『山崎宗鑑伝』(昭和三〇)
木村三四吾「山崎宗鑑」(『明治・俳句講座二』)
尾形仂「宗鑑と守武」(『俳諧史論考』)
一夜庵建立縁起
俳諧撰集 維中編 延宝九年(一六八一)。宗鑑ゆかりの讃岐国の七宝興昌寺に一夜庵再興を発起した際の勧進記念集。
  岡西維中
 寛永一六(一六三九)~正徳元(一七二一)、始め、松永姓。宗因流と貞門の対立が激化する延宝三(一六七五)以降、宗因流俳諧の自由奔放な滑稽精神と奇抜な寓意的表現の正統性を主張した。同六年、大坂に移住(備前岡山から)、宗因・西鶴らと交流し、実作面でも精力的な活動を見せた。俳論書『俳諧蒙求』、編著『岳西維中吟西山梅翁判十百韻』など。
   ~山崎宗鑑の尽きぬ謎~
 山崎宗鑑といえば、観音寺興昌寺の住職梅谷を頼って、近くの山中に一夜庵を結んだことで知られています。明日は、午前10時から、その興昌寺で一夜庵保存会の皆さんにより宗鑑忌が営まれ、午後には一夜庵で俳句会が催されます。
宗鑑は、俳諧連歌の祖として伝えられていますが、彼の作品や連歌史全体に占める位置となると、今ひとつはっきりとはしていません。そしてそれ以上に謎に包まれているのが、彼の実人生です。
 宗鑑は、室町幕府の九代将軍足利義尚に近習あるいは祐筆として仕えていたと伝えられています。その宗鑑が、なぜ、四国は僻陬の地・観音寺興昌寺にまで下り、その山中に身を潜めることになったのでしょうか。
 将軍の陣没という思わぬ一大事に遭遇したとはいえ、尾崎放哉や山頭火にも似た、世の一切からのドロップアウトが、そこには感じられます。彼の作とされるものからも、その思いや行跡は、杳として見えてはきません。
 ただ、世の名利はむろん、自らの人生さえも笑い飛ばす、徹底した自由・諧謔の精神があるのみです。 その宗鑑が、なぜこの地を終の棲家としたのか、私には尽きせぬ謎となっています。
 (剣持文庫)創作「俳諧の風景」(第16回香川菊池寛賞受賞作)

    観音寺市山崎宗鑑 草津市山崎宗鑑
 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』は下記のとおり。
 山崎宗鑑(やまざきそうかん、寛正6年(1465年)? - 天文22年(1553年)?)は、戦国時代の連歌師俳諧作者。本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江国の出身とされるが、本名・出自にについては諸説あり定かではない。
室町幕府9代将軍足利義尚に仕えた(近習とも祐筆とも)が、義尚の陣没(延徳元年1489)後出家し、摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528)に讃岐国香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、建物は修復を重ねながら現地に残されている。宗祇・宗長・荒木田守武などと交流し俳諧連歌を興隆した。宗鑑の連歌作品として伝わるものはわずかであるが、俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集「犬筑波集」があり、その卑俗奔放な句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。なお、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。能筆家としても有名で生計は書を売ることによって立てていたとも伝わる。 晩年「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失うことになる。したがって辞世は「宗鑑はいづくへと人の問ふならば ちとよう(ヨウ)ありてあの世へといへ」
 妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。豊興山妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。

芭蕉句の短歌化

  芭蕉との対話ー芭蕉歌人化ー
           (芭蕉の発句+添句)
 
 芭蕉の発句を立句として連句を巻くことは、古来なされてきたことである。それも現代感覚ではなじめないものとして取り沙汰されることはあまりない。平成も終末に近く、新たな感覚で芭蕉俳諧に挑戦してみるのも意義あることかもしれないと、芭蕉に一声かけてみたい。発句(五七五)に付句(七七)を添えたい。連句作品の方式には従わず、自由に、いわば短歌の下の句を添える感覚である。芭蕉俳人であったが、歌人にしてしまう営みかもしれない。芭蕉発句の気分を付加(添加)するという無謀・不遜な営みであり、顰蹙を買うことは間違いない。
 
 それだけで独立し完成した俳諧・俳句は、ハイク(HIKE)として世界遺産として登録してもらおうとしている文学である。古典作品から現代前衛まで日本独自の短詩型文学とて貴重なもので、それ自体尊ばれねばならない。その物自体に注釈・補足・説明など非文学的なものを添加・歪曲してはなるまい。それを危惧しながらも、あえてここで密かに細やかに四国片田舎から芭蕉ファンの声を届けたい。神聖視され、声もかけられない皇国であり続けた大和にしても中央支配体制とは無縁の自然界の真只中に【風雅】という純粋世界に生きた【誠】の人を身近に呼び寄せたい。声をかけたい。一声かけたい。一句一句に添句をしたい。長生きし過ぎて平成を越えて生きるのも平静でいられない老人の呟き・モノローグであろうか。
 
 手を付けないで見捨てられそうな芭蕉全発句九八八に「もの申す」即ち「語りかけ」をする行為だ。対話と言いたいところだが、その返事はない。それでも、なぜか芭蕉山脈に分け入ってあえて、一声かけたくなる。没後三百有余年、芭蕉と会話した人はいない。ここで我々はあえて無謀なる営みとして眠れる芭蕉に呼びかけたい。対話にはならない一方的な呼びかけに終わるが、発句一句一句に、それだけで独立し屹立している名句・秀句にも怖じず平成末年の庶民が添句するのを許していただきたい。