俳祖【山崎宗鑑】の没年

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山崎宗鑑 (掲出の写真は『俳諧名作集(潁原退蔵著))による)
 連歌師俳諧作者。 生没年未詳。洛西山崎(京都府大山崎町)に住したことから山崎宗鑑と通称される。俳諧撰集『誹諧連歌抄』(江戸初期版本では『犬筑波集』)の編者として伝えられ、同時代の荒木田守武とともに俳諧独立の基礎を築いた。風狂・飄逸の人としても伝説化されている。
 宗鑑は一休禅師を敬仰し、延徳三年、大徳寺真珠庵再建に際して一〇〇文を寄進、以後明応二年には五百文、永正七年(一五一〇)には一貫文、さらに享禄三年には入牌料一〇貫文の代りに子庭などの絵を納入している(『真珠庵文書』)。宗鑑が一休に直接参禅したかどうかは不明であるが、一休の自由な考え方が宗鑑の俳諧愛好に精神的なよりどころを与えたものと考えられる。
 宗鑑の没年は、天文十二年(一五四三)八十五歳説(『滑稽太平記』)、一夜庵に没した(『一夜庵建立縁起』)ほか諸説があるが、現在その確証はない。
 自筆懐紙の「風寒し破れ障子の神無月」に描かれた藁屋に独座する老僧の姿は宗鑑の隠棲の様子をうかがわせるが、自ら竹を切って油筒を売ったとか、歳暮に「年くれて人ものくれぬ今宵かな」と詠んで人々の援助を得たなどという清貧の逸話は伝承の域を出ない。宗鑑は『犬筑波集』を数度にわたり書写しており、編者であることはほぼ間違いがない。
『犬筑波集』の成立は享禄末年から天文初年ごろと考えられるが、俳諧の収集はすでに、大永(一五二一~二八)ごろには始まっていたようである。宗鑑を俳諧の鼻祖とする見解は、明応九年(一五〇〇)成立の『竹馬狂吟集』が発見されたので訂正されるべきであるが、「言い捨て」の俳諧を収集し、守武や宗長、のちの貞門・談林に影響を与えた功績は極めて大きい。
(上記『俳文学大辞典』所収「宗鑑(沢井耐三稿)」による)
 (参考文献)
潁原退蔵「山崎宗鑑伝」(『潁原退蔵著作集二』)
吉川一郎『山崎宗鑑伝』(昭和三〇)
木村三四吾「山崎宗鑑」(『明治・俳句講座二』)
尾形仂「宗鑑と守武」(『俳諧史論考』)
一夜庵建立縁起
俳諧撰集 維中編 延宝九年(一六八一)。宗鑑ゆかりの讃岐国の七宝興昌寺に一夜庵再興を発起した際の勧進記念集。
  岡西維中
 寛永一六(一六三九)~正徳元(一七二一)、始め、松永姓。宗因流と貞門の対立が激化する延宝三(一六七五)以降、宗因流俳諧の自由奔放な滑稽精神と奇抜な寓意的表現の正統性を主張した。同六年、大坂に移住(備前岡山から)、宗因・西鶴らと交流し、実作面でも精力的な活動を見せた。俳論書『俳諧蒙求』、編著『岳西維中吟西山梅翁判十百韻』など。
   ~山崎宗鑑の尽きぬ謎~
 山崎宗鑑といえば、観音寺興昌寺の住職梅谷を頼って、近くの山中に一夜庵を結んだことで知られています。明日は、午前10時から、その興昌寺で一夜庵保存会の皆さんにより宗鑑忌が営まれ、午後には一夜庵で俳句会が催されます。
宗鑑は、俳諧連歌の祖として伝えられていますが、彼の作品や連歌史全体に占める位置となると、今ひとつはっきりとはしていません。そしてそれ以上に謎に包まれているのが、彼の実人生です。
 宗鑑は、室町幕府の九代将軍足利義尚に近習あるいは祐筆として仕えていたと伝えられています。その宗鑑が、なぜ、四国は僻陬の地・観音寺興昌寺にまで下り、その山中に身を潜めることになったのでしょうか。
 将軍の陣没という思わぬ一大事に遭遇したとはいえ、尾崎放哉や山頭火にも似た、世の一切からのドロップアウトが、そこには感じられます。彼の作とされるものからも、その思いや行跡は、杳として見えてはきません。
 ただ、世の名利はむろん、自らの人生さえも笑い飛ばす、徹底した自由・諧謔の精神があるのみです。 その宗鑑が、なぜこの地を終の棲家としたのか、私には尽きせぬ謎となっています。
 (剣持文庫)創作「俳諧の風景」(第16回香川菊池寛賞受賞作)

    観音寺市山崎宗鑑 草津市山崎宗鑑
 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』は下記のとおり。
 山崎宗鑑(やまざきそうかん、寛正6年(1465年)? - 天文22年(1553年)?)は、戦国時代の連歌師俳諧作者。本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江国の出身とされるが、本名・出自にについては諸説あり定かではない。
室町幕府9代将軍足利義尚に仕えた(近習とも祐筆とも)が、義尚の陣没(延徳元年1489)後出家し、摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528)に讃岐国香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、建物は修復を重ねながら現地に残されている。宗祇・宗長・荒木田守武などと交流し俳諧連歌を興隆した。宗鑑の連歌作品として伝わるものはわずかであるが、俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集「犬筑波集」があり、その卑俗奔放な句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。なお、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。能筆家としても有名で生計は書を売ることによって立てていたとも伝わる。 晩年「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失うことになる。したがって辞世は「宗鑑はいづくへと人の問ふならば ちとよう(ヨウ)ありてあの世へといへ」
 妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。豊興山妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。