永井隆『この子を残して』巻頭文

 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノは冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、

「ああ、⋯⋯お父さんのにおい⋯」

と言った。 

 この子を残して⋯⋯この世をやがて私は去らねばならぬのか⋯

 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?

 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?