47年前のエッセイ「声なき挽歌」評

昭和50年執筆した拙作「声なき挽歌」の朝日新聞「同人誌」評

 万葉集の挽歌263首のなかに、この立場で親の死を歌ったものは一首もない。これを「万葉の過失」とみなして、その理由を考える。「親子の情というものは、文学的に形象化しにくく、ぬめぬめしたものではないか。断ち難いものではなく、、断ちえない絆、えにしというものであり、それは古代人の詩歌的発想にはむえんのものだったと判断した」。ところが、古今集では3首、新古今集では7首、親の死に関する哀傷歌が現れている。「時が下るにつれて、あらわなる有声挽歌となるが、古の魂のむせびをひそかなる息遣いに見出していきたい。⋯声なき挽歌は人生の内在律として潜在している方が、むしろ自然なのかもしれない-―」

 引用をしてくれなかった冒頭の部分を挙げておく。

 生はすでに死をはらんでるという点で、人生はつねに挽歌的である。人の歴史は、その宿命に対するひそかなる抗いであろう。その虚しさの果てに、生をも死そのものとみる者が現れる。今ここでは、死に随順した古人の歌に聞き入ろうと思う。挽歌はエレジー(哀歌)よりレクイエム(鎮魂曲)に近い。