学生時代

 森滝一郎先生は原爆実験反対運動の座り込みで有名な教授だった。被爆していて、片眼が見えなくなっていた。物理学の岡崎先生は「森滝先生がいくら座り込みしても、アメリカは実験するのであります」と冷ややかに批判的なことを言っていた。

 市内の平和公園に架かる平和大橋の設計はイサムノグチであるとのことで父と同じ名なので親近感を覚えた。この公園には「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑がある。この文の主語は何か取り沙汰されたことがある。この記念碑にあの眉目秀麗のネール首相が参拝されたことがある。どうしても目の前に見たくて、群衆を押し分けて目前まで行き、その優しいほほ笑みを見た。無抵抗主義ガンジーの流れを受け継ぐ世界平和主義者の、その優しい視線を忘れることができない。

 平和記念会館での文化講演では、湯川秀樹野上弥生子などの話を遠くから聴いたりもした。学部の講義にはあまり魅力を感じなかったし、苦痛であった。日本文学全集・世界文学全集は一通り読んだ。当たり前のことで、専攻は国語学国文学なので、もうそれ以上は深入りしようとは思わなかった。卒業論文と言えるものは書けていない。教養部の岩佐正先生の指導で「平家物語の女性について」書いたに過ぎない。教育学部高校教員養成課程の人たちとほとんど同じ講義を受けたが、自分たち文学部文学科の学生は、一般社会への就職へ道は開かれていたが、ほとんどが中学高校教員になった。自分も地元の香川県で高校教員となることに落ち着いてしまう。

「ふるさとは遠くにありて思うもの」と歌った室生犀星の金沢に憧れて、石川県の採用試験は満点であったという自信がある。受けるだけは勝手だと持って、長崎県岡山県にも合格通知をもらっていたが、すべて断らざるをえなかった。地元香川県でうまくいかければという用心のために教員採用試験は余分に確保しておいた。長崎県五島列島の高校から打診の電報をもらって、最果ての島に赴任するのもおもしろいとは思ったが、これは空想に終わってしまった。父それでもが玄界灘を越えて大陸満洲に渡った勇猛果敢な心を再体験する余裕はなかった。

 何はともあれ、高校教員免許証を取得さえすれば、その素養としての専門知識を身に付け、全国どこにおいても国語教師になれる。文学教師として過ごすことができれば、それで十分である。全国に通用する免許証一枚を基にして、自分の好みで採用試験に臨んだ。

「ふるさとは遠きにて思うもの、そしてかなしく歌うもの」の室生犀星の金沢、石川県に早々と合格、長崎県岡山県も合格通知をもらったが、母親を一人残して地元香川県をはなれることは出来ない相談だった。なんの迷いも無かったのだが、若き日の一時の夢としてはどこにでも赴任できる態勢だけは整えておきたかった。

 進学も就職も東京は眼中になかった。アンチ東京、中央集権に対する片意地なレジスタンス。そんな浅はかなでナンセンスな抵抗も故郷帰納で、終止符が打たれた。

 自分の選んだ人生の節目、節目に悔いも挫折もない。目標を高く持ちすぎて、こんなところで挫折してたまるものか、そんな達観とも妥協とも言える選択があった。大切なのは、その後の生の軌跡に自己研鑽が必要なので、スタートラインがどこに引かれようと、それを運命と受け容れることであると信じていた。現実の状況を認識しての判断の誤りは困るが、お大きな狂いさえなければ、これからの自分を長い目で見ていて下さいと軽く言うしかないのであった。