がんばる

「随筆無帽」五七〇号        
動詞の風景①「頑張る」   
 
春は動詞である。万物のハル(発る)候であり、草木の芽のハル(張る)時であるからだ。英語で春を表すスプリングも、とびはねる(跳躍)という動詞から来ている。その緊張感において共通するものがある。
このような威勢のいい書き出しから始めた『動詞の風景』シリーズを書いて二十年になる。この度再び動詞をタイトルにしばらく『動詞の風景』続編を書き続けることにした。生きているのか死んでいるのか分からないような老後の生き方に喝を入れるためにも、ここで頑張ってみたい。
【頑張る】について
 この言葉を金科玉条のように使っていた時代は過ぎた。鎌田實の『がんばらない』が象徴するように「がんばれ」は一面むごいことばでさえある。これ以上がんばれない人がいる。闘病生活で精一杯がんばっている人に、それ以上にどうがんばれと言うのだろう。ただ、励ます言葉としてそれに代わるどんな言葉があるだろうか。しかしながら、いくらなんでも「がんばらくてもいいから」とは口に出しては言えまい。
「頑張る」は当て字で、「がんばる」がいいとされるが、一応常用漢字音訓表の範囲内で書ける。ただし、重箱読みである。
 この語の由来、語源には二通りある。
一つは「眼張(がんばる)」が転じたものとする。「目を付ける」「見張る」「一定の場所から動かない」
もう一つは「我張る(がんばる)」から転じたものとする。「自説を押し通す」「困難に屈せず自分でやり通す」
いずれも求心力を言っているのであって、大差はない。語源はどうあろうと、現在使われている「頑張る」は自己集中的、内向きであるあることに変わりはない。「張り詰めた心」のひたむきさがある。専心没頭、気()を入れることであって、骨を惜しむ、手を緩めることではない。
頑張り屋には敬意が表わされている。
警察犬としての訓練で、きな子自身も調教師も辛抱強く、挫けず「がんばって」ようやく合格の日を迎えることができ、多くの人々の感動と祝福を得た。頑張り屋には多くの場合好意的に受け取られるが、それが高じて学校などで我利勉などと陰口をたたかれると、この頑張りは蔑みの領域に転じられる。悲しいかなである。そのような見方をされて、仲間外れ、果てはいじめにもなりかねない扱いをされることに同情せざるをえない。
「頑張る」の動詞の遠心力という反作用を称揚したいというのが、本稿のねらいとしたい。何も頑張るは己のためばかりではない。世のため、人のため、それも知らずに自分のための我利我利亡者とみなすのは早計である。大空に飛翔するためのポテンシャルエネルギーを蓄えるために雌伏している期間が必要であることを知らねばならない。モラトリアム人間の期間が多少とも必要であることを訴えたい。どんなに頑張っても、時勢柄正社員になれずに若者が多い現代の処世術が模索されねばならない。就活、婚活に疲れて、どう頑張り様もない人々のことを思う。その身の振り様がなくて行き場を失っている人々のことを思う。政治の無策にしてしまわないで、発想の転換からその苦境から脱する鍵を見出さねばならない。
「がんばれよ」「がんばる」という空疎なことばのまま、解決策のないまま過ぎ行く平成年間がいつまでも続いていいわけではない。
がんばらない・がんばります・がんばる・がんばるとき・がんばれば、がんばれ。そしてこの五段活用を完成させるためには「がんばろう」の意気込みが何より必要とされる。