西行、白峯へ
前日まで吹き荒れた風はなぎ、瀬戸は鏡のように穏やかに波静かで、小春日和の温かさです。怒濤を乗り越えて讃岐へ渡ると言えば、この場にふさわしいのでしょうが、海人小舟はゆるるかに流れていくのです。沖に出ると潮の流れで左右に揺れながらも、島山を目指して漕がれてゆきます。白峰とおぼしき岬の山は屹立して波路の涯に浮かんでいます。海の真直中に投げ出されたような心もとなさでありながらも、讃岐へやがて渡り御陵に額ずくのだという張りつめた気持ちで二人は黙したままです。ときどき波しぶきが舷を越え顔に飛び散ることがあっても、拭おうともしません。
「こちらが大槌、あちらが小槌」
海人が気の抜けた声で取りつく島のないようなことを言います。
獣が大きく口を開き咆哮するかのように、弓なりの岬が沖に向かっています。一つ二つ舟が出入りして泊りもあるようですが、
「松山の津はこの裏手、白峰寺ならその方が近かろう」
海人は岬沿いに舟を進めてゆきます。
西住も私も端座して前方を眺めております。舟が岬を回り左に折れたとき、そこに松山の津をはっきりと見ることができました。やわらかく入り込んだ岬隠れの津の相は母の懐を思わせる優しさに満ちておりました。初冬ではありながら暖かい小春の日射しを受けて輝く波のまぶしさがありました。紫色を帯びてそそり立つ峰々の荘重さに対して、松山の津が旅人を抱き入れる姿で待っていたことをわたしはかえって哀しく思いました。
国府庁も近いという津の船着き場には、いかめしい形の舟もつながれています。海人はそこを避けるように砂浜を選んで舟を着けるのでした。棹の力でのし上がった舟の舷から西住とわたしは降り立ちました。潮が冷たい それがわたしの讃岐へ渡った初感でした。気をつけて降りたはずの足もとは波打際で、草鞋が白波に洗われたのです。
サワー、サワーと砂浜を這うように波は寄せては崩れています。わたしは初めて讃岐の渚に打ち寄せる波が寄せては崩れても、崩れて返さぬさまを見出したのです。海の涯から湧き起こったような、その命さえ帯びたような波は、サワーサワーと寄せて止むのです。
「返さぬ波を、西住よ見たまえ」
「わたしも先ほどからそのことを・・・」
空しく崩れる波の景色を陶然と見つめておりましたとき、チチ、チチと千鳥が鳴き過ぎてゆきました。飛びゆく方は枯葦の群がる川辺のようでした。
その川が綾川で、新院は都を懐かしんで賀茂川と称していたことを後ほど知ったのですが、野をゆるやかに流れて松山の津の際に注いでいるのです。わたしと西住はこの川岸をさかのぼってゆくことになるのです。野にたてもよこもないのに、この川は野をはすかいに流れているようでした。
かつて都において院の女房から、またここを訪れたことのある蓮誉などから、新院の住まわれていた所のさまを聞き及んでいましたが、その方位までは確かめてはいません。里人にたずねるよりしかたありません。
「木の丸腰は一里もさかのぼらねばなりますまいが、初めの仮御所はそこにありました」
指さすところはこんもり茂った左手の森。畑中にあります。西住とわたしはうなずき合いました。まずは白陵の御陵へと志してはいたのですが、こう近いところにありますと、その御跡をたずねるのが道順というものでありましょう、どうしても素通りすることができない気持ちになりました。
「そこにありました」と言うことばは「もうそこにはない」ことを表していたのだと、その森に分け入って初めてわかりました。古びて取り壊されたものか、汚い物のように取り除かれたものか、いずれにしても新院の住みついた行在所は跡形もなかったことだけが確かなのです。その標さえ見当たりません。
わたしの耳底にはまだ松山の津の波の空しさが聞こえております。そして今、住みし所の形もなかったという空しさが重くのしかかり、流されて来た院はまぎれようもなく消えていったのです。
松山の波に流れて来し舟の
やがて空しくなりにけるかな
棄小舟でも破船でもなく、姿を失い尽くした空なる舟なのです。幻さえ浮かばぬ空漠の舟です。実は此岸松山の津へ初めから流れ着きはしなかったのかもしれません。
わたしはここに至って、幻も夢も信じることができなくなってきました。初めから何もなく、何事も起こりはしなかったのだという（これも一つの幻影かもしれませんが）現の姿を見届けたのであります。
松山の波の景色は変らじを
形無く君はなりましにけり
あいついでこんなふうに歌ってみましたが、この時すでにわたしの心は別の次元に移っていたと言えるかもしれません。読み返してこの歌にはかなさ以上のものがこもっているとは申せません。これはこれでいいので、このようにしかわたしは歌えなかったのです。
しかし、わたしの裡なる世界では君を慕い幻影を追う空しい営みが断たれていたことを人は知りはしないでありましょう。心の友西住でさえわたしの裡に兆した、この恐るべき君への背離をつゆほども感じてはいないでしょう。しいて言えば背離になるでしょうか、もっと言い方を変えれば超脱、君からの超脱なのでしょう。
白峰寺への道は険しいものでした。だらだらとした道ではなく、麓までは平らかに歩み、そこからは駆け上ると言った方がいいでしょうか。長い舟旅の疲れも御陵へ参ずるという厳粛な時に向かって何ごともありませんでした。年来の宿願であった白峰詣が、その寸前になって厳粛さを失うことにはなりません。それでいてわたしには君を超えたもの、幻の奥の手ざわりのようなものが深く根を下ろしていることに気づいておりました。
御陵とは言え、土を盛り上げたばかりの奥津城にすぎなかったのですが、それはそれとしていかにもふさわしい姿であるように観じられたのです。それでも、
よしや君玉の床とても
かからん後は何にかはせん
と詠じました。新院は生前、帝位にあられる時から自らの運命を予感していたかのごとく〝松が根の枕は何かあだならむ玉の床とて常のことかは〟と詠じられていたはずです。憤懣やる方ない末路ではありましても、人の世を浮き雲のごとく見なすお心があられたと、推し測ることができます。とは言え、それが現となって御身に及ばれた時、悟りとか諦観に達しえたとは信じきれません。やはり院とて人の子、出生にまつわる不遇を人一倍嘆いて果てたと思われます。そのような見地からも、君の遺恨を深く察し、菩提を弔うことが仏の道にかなう行いでありましょう。わたしの歌もそのような、故院に対するひたすらな鎮魂歌であります。
ここでもまたわたしは正統な表向きの歌を詠じた心にもない歌であるとは申しません。ただわたしの奥処をのぞかせる響きだけは誰かに通じようかと考えたりするのです。むりなことでしょう。一体この歌のどこにわたしの本心をのぞかせているかと眺めても、わたし自身もわかりません。ですから、そのところを解き明かしておかねばなりません。
はっきり申せば、君の生を一途に哀しむ心がなくなっているのです。西住はおろか何人にも語れない恐ろしいものです。一重に憐れ悼む心の失われた、空しくも不敬な「罪」であるかもしれません。それにもかかわらず、わたしの裡にはこの空しい真実を守ろうとする、かたくななまでの道が通じてしまいました。道？仏の道でもありますまい。歌の道でもありますまい。わたしは今まで仏の道は歌の道に通じ、歌の道は仏の道に通ずると、その二つの道をあゆんできました。そして二つの道は相通じる交わりを保って深く確かなものに錬成されてきたように思っています。ところが、讃岐に渡り院の亡き跡を観て、その時から、そしてそれはわたしのどこかに蔵されていたものでしょうが、一つの道がわたしの裡なる世界に通じていることを見出したのです。
かつて在ったものが無くなる、そんな姿がいかにも虚妄で、そんな無常観が信じられなくなったのです。仏の道にもとるものかどうかわかりませんが、すべてのもの、人の為す業が無そのものであるように思われるのでした。無に帰するのではなく、初めから無であることが真如と言えましょうか。
終夜御陵の霊前で誦経する間も真如の月は出ておりませんで、吹き上げてくる夜風に鳴る松籟ばかりでありました。西住はわたしのななめ後ろに坐って共に誦経しております。感涙にむせぶのか、寒気に喉を冒されたのか、その声はしわがれています。故院を追慕追福する心の深さにどれほどの隔たりがありましょう。それでいてわたしの心根は一筋に院へ向かってはいなかったのです。その亡霊も信ずることができませんし、それに対面して責めあげつらう意もなく、憐憫の情をかける仏心もありませんでした。
〝浜千鳥跡は都に通へども身は松山に音をのみぞ聞く〟この御製に涙したのも今では昔のことになってきました。幻聴にさえ故院のすすり泣きを聞くこともできませんし、あの松籟を泣く声によそえて聞きなすこともできません。それが恐ろしいことだとも今では考えなくなりました。
神無月は闇の頃で、わたしのめでてきた月も出ておりません。闇は院とわたしを西住の間をも隔てているのでしょうか。院の霊魂をわが心とすることもできず、西住の心をわが心とすることもできないのです。院の怨念を憐れむにはわたしの心があまりにも冷え寂びているでしょうし、西住の純なる悼みに共鳴するにはわたしの心があまりにも無礙になっているのでしょう。
白峰天狗の言い伝えがあり、中をさまよう魂魄があるにしても、わたしにはその妖幻を見るおののきの心を失っているのです。冴えきったわたしの哀しみはそこにあり、それは独りの哀しみというものでしょうか。わたしは西住と共にあるのでもないし、新院の御前にあるのでもないのです。もしも後世わたしの白峰詣を幻想化して物語る者があるなら、それはわたしの裡なる真如の月を見られないものでありましょう。
白峰逗留の間に、新院晩年の行在所、木の丸殿を鼓ヶ岡に訪ねました。これも西住に誘われなければ、行くこともなかったかもしれません。わたしはもう新院にまつわる物を見る営みの益なきことを知っていたからです。あるいは、そこに在るということが不実であると決めようとしていたのかもしれません。そこに在るということは、わたしには戸惑いであると共に虚仮の姿に映るにすぎないからです。
三年前までの幽居、木の丸殿がそこに確かに何の不思議もなく在ったということは、わたしに何の感興もそそらず、強いて歌を作らなかったのも理の当然であります。
「こちらが大槌、あちらが小槌」
海人が気の抜けた声で取りつく島のないようなことを言います。
獣が大きく口を開き咆哮するかのように、弓なりの岬が沖に向かっています。一つ二つ舟が出入りして泊りもあるようですが、
「松山の津はこの裏手、白峰寺ならその方が近かろう」
海人は岬沿いに舟を進めてゆきます。
西住も私も端座して前方を眺めております。舟が岬を回り左に折れたとき、そこに松山の津をはっきりと見ることができました。やわらかく入り込んだ岬隠れの津の相は母の懐を思わせる優しさに満ちておりました。初冬ではありながら暖かい小春の日射しを受けて輝く波のまぶしさがありました。紫色を帯びてそそり立つ峰々の荘重さに対して、松山の津が旅人を抱き入れる姿で待っていたことをわたしはかえって哀しく思いました。
国府庁も近いという津の船着き場には、いかめしい形の舟もつながれています。海人はそこを避けるように砂浜を選んで舟を着けるのでした。棹の力でのし上がった舟の舷から西住とわたしは降り立ちました。潮が冷たい それがわたしの讃岐へ渡った初感でした。気をつけて降りたはずの足もとは波打際で、草鞋が白波に洗われたのです。
サワー、サワーと砂浜を這うように波は寄せては崩れています。わたしは初めて讃岐の渚に打ち寄せる波が寄せては崩れても、崩れて返さぬさまを見出したのです。海の涯から湧き起こったような、その命さえ帯びたような波は、サワーサワーと寄せて止むのです。
「返さぬ波を、西住よ見たまえ」
「わたしも先ほどからそのことを・・・」
空しく崩れる波の景色を陶然と見つめておりましたとき、チチ、チチと千鳥が鳴き過ぎてゆきました。飛びゆく方は枯葦の群がる川辺のようでした。
その川が綾川で、新院は都を懐かしんで賀茂川と称していたことを後ほど知ったのですが、野をゆるやかに流れて松山の津の際に注いでいるのです。わたしと西住はこの川岸をさかのぼってゆくことになるのです。野にたてもよこもないのに、この川は野をはすかいに流れているようでした。
かつて都において院の女房から、またここを訪れたことのある蓮誉などから、新院の住まわれていた所のさまを聞き及んでいましたが、その方位までは確かめてはいません。里人にたずねるよりしかたありません。
「木の丸腰は一里もさかのぼらねばなりますまいが、初めの仮御所はそこにありました」
指さすところはこんもり茂った左手の森。畑中にあります。西住とわたしはうなずき合いました。まずは白陵の御陵へと志してはいたのですが、こう近いところにありますと、その御跡をたずねるのが道順というものでありましょう、どうしても素通りすることができない気持ちになりました。
「そこにありました」と言うことばは「もうそこにはない」ことを表していたのだと、その森に分け入って初めてわかりました。古びて取り壊されたものか、汚い物のように取り除かれたものか、いずれにしても新院の住みついた行在所は跡形もなかったことだけが確かなのです。その標さえ見当たりません。
わたしの耳底にはまだ松山の津の波の空しさが聞こえております。そして今、住みし所の形もなかったという空しさが重くのしかかり、流されて来た院はまぎれようもなく消えていったのです。
松山の波に流れて来し舟の
やがて空しくなりにけるかな
棄小舟でも破船でもなく、姿を失い尽くした空なる舟なのです。幻さえ浮かばぬ空漠の舟です。実は此岸松山の津へ初めから流れ着きはしなかったのかもしれません。
わたしはここに至って、幻も夢も信じることができなくなってきました。初めから何もなく、何事も起こりはしなかったのだという（これも一つの幻影かもしれませんが）現の姿を見届けたのであります。
松山の波の景色は変らじを
形無く君はなりましにけり
あいついでこんなふうに歌ってみましたが、この時すでにわたしの心は別の次元に移っていたと言えるかもしれません。読み返してこの歌にはかなさ以上のものがこもっているとは申せません。これはこれでいいので、このようにしかわたしは歌えなかったのです。
しかし、わたしの裡なる世界では君を慕い幻影を追う空しい営みが断たれていたことを人は知りはしないでありましょう。心の友西住でさえわたしの裡に兆した、この恐るべき君への背離をつゆほども感じてはいないでしょう。しいて言えば背離になるでしょうか、もっと言い方を変えれば超脱、君からの超脱なのでしょう。
白峰寺への道は険しいものでした。だらだらとした道ではなく、麓までは平らかに歩み、そこからは駆け上ると言った方がいいでしょうか。長い舟旅の疲れも御陵へ参ずるという厳粛な時に向かって何ごともありませんでした。年来の宿願であった白峰詣が、その寸前になって厳粛さを失うことにはなりません。それでいてわたしには君を超えたもの、幻の奥の手ざわりのようなものが深く根を下ろしていることに気づいておりました。
御陵とは言え、土を盛り上げたばかりの奥津城にすぎなかったのですが、それはそれとしていかにもふさわしい姿であるように観じられたのです。それでも、
よしや君玉の床とても
かからん後は何にかはせん
と詠じました。新院は生前、帝位にあられる時から自らの運命を予感していたかのごとく〝松が根の枕は何かあだならむ玉の床とて常のことかは〟と詠じられていたはずです。憤懣やる方ない末路ではありましても、人の世を浮き雲のごとく見なすお心があられたと、推し測ることができます。とは言え、それが現となって御身に及ばれた時、悟りとか諦観に達しえたとは信じきれません。やはり院とて人の子、出生にまつわる不遇を人一倍嘆いて果てたと思われます。そのような見地からも、君の遺恨を深く察し、菩提を弔うことが仏の道にかなう行いでありましょう。わたしの歌もそのような、故院に対するひたすらな鎮魂歌であります。
ここでもまたわたしは正統な表向きの歌を詠じた心にもない歌であるとは申しません。ただわたしの奥処をのぞかせる響きだけは誰かに通じようかと考えたりするのです。むりなことでしょう。一体この歌のどこにわたしの本心をのぞかせているかと眺めても、わたし自身もわかりません。ですから、そのところを解き明かしておかねばなりません。
はっきり申せば、君の生を一途に哀しむ心がなくなっているのです。西住はおろか何人にも語れない恐ろしいものです。一重に憐れ悼む心の失われた、空しくも不敬な「罪」であるかもしれません。それにもかかわらず、わたしの裡にはこの空しい真実を守ろうとする、かたくななまでの道が通じてしまいました。道？仏の道でもありますまい。歌の道でもありますまい。わたしは今まで仏の道は歌の道に通じ、歌の道は仏の道に通ずると、その二つの道をあゆんできました。そして二つの道は相通じる交わりを保って深く確かなものに錬成されてきたように思っています。ところが、讃岐に渡り院の亡き跡を観て、その時から、そしてそれはわたしのどこかに蔵されていたものでしょうが、一つの道がわたしの裡なる世界に通じていることを見出したのです。
かつて在ったものが無くなる、そんな姿がいかにも虚妄で、そんな無常観が信じられなくなったのです。仏の道にもとるものかどうかわかりませんが、すべてのもの、人の為す業が無そのものであるように思われるのでした。無に帰するのではなく、初めから無であることが真如と言えましょうか。
終夜御陵の霊前で誦経する間も真如の月は出ておりませんで、吹き上げてくる夜風に鳴る松籟ばかりでありました。西住はわたしのななめ後ろに坐って共に誦経しております。感涙にむせぶのか、寒気に喉を冒されたのか、その声はしわがれています。故院を追慕追福する心の深さにどれほどの隔たりがありましょう。それでいてわたしの心根は一筋に院へ向かってはいなかったのです。その亡霊も信ずることができませんし、それに対面して責めあげつらう意もなく、憐憫の情をかける仏心もありませんでした。
〝浜千鳥跡は都に通へども身は松山に音をのみぞ聞く〟この御製に涙したのも今では昔のことになってきました。幻聴にさえ故院のすすり泣きを聞くこともできませんし、あの松籟を泣く声によそえて聞きなすこともできません。それが恐ろしいことだとも今では考えなくなりました。
神無月は闇の頃で、わたしのめでてきた月も出ておりません。闇は院とわたしを西住の間をも隔てているのでしょうか。院の霊魂をわが心とすることもできず、西住の心をわが心とすることもできないのです。院の怨念を憐れむにはわたしの心があまりにも冷え寂びているでしょうし、西住の純なる悼みに共鳴するにはわたしの心があまりにも無礙になっているのでしょう。
白峰天狗の言い伝えがあり、中をさまよう魂魄があるにしても、わたしにはその妖幻を見るおののきの心を失っているのです。冴えきったわたしの哀しみはそこにあり、それは独りの哀しみというものでしょうか。わたしは西住と共にあるのでもないし、新院の御前にあるのでもないのです。もしも後世わたしの白峰詣を幻想化して物語る者があるなら、それはわたしの裡なる真如の月を見られないものでありましょう。
白峰逗留の間に、新院晩年の行在所、木の丸殿を鼓ヶ岡に訪ねました。これも西住に誘われなければ、行くこともなかったかもしれません。わたしはもう新院にまつわる物を見る営みの益なきことを知っていたからです。あるいは、そこに在るということが不実であると決めようとしていたのかもしれません。そこに在るということは、わたしには戸惑いであると共に虚仮の姿に映るにすぎないからです。
三年前までの幽居、木の丸殿がそこに確かに何の不思議もなく在ったということは、わたしに何の感興もそそらず、強いて歌を作らなかったのも理の当然であります。
