拙著『鍬の戦士』
「開拓少年への挽歌」の見出しで毎日新聞香川版の記事が私の意図を一番よく汲んでくれていると思うのでここに紹介しておく。
太平洋戦争下はるか北満の地に駆り立てられ、敗戦後は飢えと寒さと病で死んでいった満洲開拓の少年たちー。その一つ香川の「満州開拓青年義勇隊・野口中隊」の苦難の足跡をたどった中隊史『鍬の戦士』がこのほど出版された。著者は野口中隊長の長男雅澄さん(観音寺市柞田町)。この書は誤った国策のもとで異国に散った異国の少年への挽歌と言う。
満洲開拓青少年義勇軍は「聖業」という美名のもとに昭和十三年から敗戦の昭和二十年まで全国から送り出された。野口中隊は香川の第五次義勇隊で、隊員は国民学校高等科を卒業したばかりの少年二百十六人。野口中隊長ら幹部に引率され、十七年五月五月下旬渡満し、日本から四千四百㌔も離れたソ満国境近くの対店、昭明で開拓に当たった。
『鍬の戦士』は雅澄さんが戦後も保管していた父親からの私信や無事に帰還した隊員らの話をもとに二年がかりでまとめたもので、渡満前の内地での訓練から始まり北満での開拓作業、生活、ソ連軍の侵入、敗戦後難民となって次々と死んでいった引揚げまでの悲痛な道程など詳しく描いている。
雅澄さんは「父が渡満した当時、私は四歳。満洲体験のない私が書くのは適任ではない」としながら、あえて筆をとったことについて「童顔のおもかげを持つ北満の地に駆り立て、若い命をむなしく落とさせた為政者の過ちだ。その片棒をかついだ父は本望であったと思いなしたい。しかし、国策の捨て石と若者の死はあまりにもむなしい。父に代わって、忘れようとしているその足跡をたどることがせめてもの供養になればと思った」と話している。
本書は限定二百部の自費出版で、関係者に進呈、特に犠牲者の仏前に供えられるだけでいいと思っていた。その後聞き及んだ人から頼まれても残部一冊をお貸しするだけである。縮刷ダイジェスト版でも限りがあってほとんど行き渡っていない。本書『昭和の証言』の紙面を借りて半世紀前の拙著『鍬の戦士』一六〇頁の内容を要約しておきたい。
序文は帰還した中隊幹部多田剛先生にお願いした。勿論今は鬼籍に入っている。
著者は満洲の現地は知らないが、三年余中隊長から家族へ宛られた通信を保管され、また隊員達を巡廻せられ、実生活について様子を克明に記録されていて、実に感嘆する。吾々も三十年も過去のことで余程の記録の無い限り茫然となりつつある。
実は昭和十七年五月二十四日鴨緑江を渡り、安東駅で臨時列車を待つ小休止までが内地で言う「満蒙開拓青少年義勇軍」であった。それが国境を越えると「満洲開拓青年義勇隊」と称呼せられるようになり、全員をして軍人の卵に変えさせてしまった。往古の屯田兵とはこのことであろうかと想像される。
やがて汽車は北満の大平原を一路北上、朝日も夕日も地平線から出て地平線に沈む、初めて見る雄大さに感嘆した。目的地は海北駅から四十粁の対店大訓練所だった。お客様扱いは当日のみ、翌日から早速宿舎の整備、開墾、播種、大地との闘いであった。隊員は皆真面目によく働き上司の意を体して活動してくれた。(中略)
不幸にして昭和二十年七月在満日本人に総動員令が下り、私も召されて軍隊に入ることになった。わずか一ヵ月足らずで敗戦。北満の日本人は皆北安飛行隊へ収容されてしまった。九月十三日シベリアへ移送される際の集合中、隊員や野口中隊長にも面会はできたが、之が最後の別離だった。(野口中隊幹部教学教士 多田剛)
続く私の「はしがき」は二頁あるが末尾数行のみを抜書きしておく。
昔中国において楚王項羽が郷里に子弟を連れ帰し得ず、自刃したように、父は死んで然るべきであったと思う。私はそのことよりも若き隊員の多くが、大人たちに欺かれて命を落としたことを問題にしたい。まだ童顔の面影をもつ少年をはるかなる北満の地に駆り立てたことを、そしてむなしくかの地に眠らせてしまったことを。それは明らかに為政者の過ちであると思うものの、直接隊員を指導した当事者野口勇の責任を感じ、贖罪したい気にもなっている。(父二十八回忌に)
さて、本文は次のように略述しておく。
〔内原訓練所〕茨城県鯉淵村にある内地訓練所で昭和十七年一月から三月までまず幹部訓練。三月十日香川日々新聞は義勇軍野口中隊の郷土出発を祝して次のように報じた。
心は満蒙の大地に
~若き拓士たち内原の訓練所へ~
大陸に第二の故郷を建設しようと今春の国民学校高等科卒業生二百五十名をもって編成した満蒙青少年義勇軍香川中隊は十日午後七時二分野口中隊長に引率され県係員および肉親恩師など多数見送り人の歓呼、万歳を浴びて勇躍内原訓練所に向かった。壮行会には知事代理、拓務省理事官ほか多数列席、関係係官の激励があった。(後略)