父の命日

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   本日令和3年3月12日は満蒙開拓青少年義勇軍中隊長・父の75回忌

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   拙著『鍬の戦士』昭和48年刊

「開拓少年への挽歌」の見出しで毎日新聞香川版の記事が私の意図を一番よく汲んでくれていると思うのでここに紹介しておく。

 太平洋戦争下はるか北満の地に駆り立てられ、敗戦後は飢えと寒さと病で死んでいった満洲開拓の少年たちー。その一つ香川の「満州開拓青年義勇隊・野口中隊」の苦難の足跡をたどった中隊史『鍬の戦士』がこのほど出版された。著者は野口中隊長の長男。この書は誤った国策のもとで異国に散った異国の少年への挽歌と言う。

満洲開拓青少年義勇軍は「聖業」という美名のもとに昭和十三年から敗戦の昭和二十年まで全国から送り出された。野口中隊は香川の第五次義勇隊で、隊員は国民学校高等科を卒業したばかりの少年二百十六人。野口中隊長ら幹部に引率され、十七年五月五月下旬渡満し、日本から四千四百㌔も離れたソ満国境近くの対店、昭明で開拓に当たった。

『鍬の戦士』は雅澄さんが戦後も保管していた父親からの私信や無事に帰還した隊員らの話をもとに二年がかりでまとめたもので、渡満前の内地での訓練から始まり北満での開拓作業、生活、ソ連軍の侵入、敗戦後難民となって次々と死んでいった引揚げまでの悲痛な道程など詳しく描いている。

 【香川県海外開拓者殉難之碑】

昭和拾弐年、果てしない満蒙の荒野において、一万有余名の人々が開拓と食糧増産に懸命に取り組んでいました。開拓団五千九百余名、義勇隊二千七百余名、報国農場隊一千百余名、花嫁女塾二百余名が、十八の出身母体から集結したこの人たちは、零下何十度の厳寒に耐えながら、海外雄飛の夢を抱き日本の発展に尽くす熱意に燃えて、新しい村造り国造りに励んでいました。村を襲撃されるなど幾多の苦難の末、ようやく安住できるようになったのも束の間、昭和十六年十二月八日、突如大東亜戦争が勃発し戦火が日増しに激烈さを増す中で若者は次々と召集され開拓地は戦場となりました。残された女性老人子供は相次ぐ外敵の襲来にさらされ、各地に離散を余儀なくされたのでした。

こうした中、昭和二十年八月十五日に終戦を迎えました。寒さや飢えとたたかいながら、救いを求めて一歩でも母国に近づこうとさまよう中で、栄養失調や病気に苦しみ、母を子を友を失い一家が全滅し、ついには足手まといになるまいと自ら命を絶つ者が出るなど、悲惨な状態が続きました。生きて祖国日本の土を踏んだ者は一万余名のうち約三千八百名にすぎませんでした。これはひとり満蒙開拓団だけのことではありません。朝鮮、台湾、樺太、南方方面、さらに遠くは南米、北米等でも、開拓者の苦難と辛苦は同様です。無事帰国できたものはまだしも幸いで、志なかばにしておわった人々の無念の思いは今もなお、その地に残っているに違いありません。終戦後三十余年を経た今、往時をしのんでこれら海外開拓に携わった人々の御魂を祀るため、殉難の碑を建ててその功績を誌すとともにご冥福を祈念するものであります。

昭和五十六年三月吉日 建立者名 香川県海外開拓者殉難之碑建設会