『鍬の戦士』(香川県の昭和)

〔昭和の証言〕鍬の戦士

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 〔昭和の証言〕 鍬の戦士        

  香川県満蒙開拓団遭難者。死亡者は一一九五名で、在籍者四五〇三名のほぼ四分の一に当たる。最も犠牲者の多かったのは樺林栗熊村で、約半数が死亡している。女子供のいた一般開拓団は、若い者ばかりの義勇隊よりはるかに悲惨であった。児童虐待の受難死史として義勇隊のみを強調することはできない。この人たちのあわれさは脳裏に焼き付いて離れなかった。

 義勇隊員は訓練所という国家管轄機構の中で、一般の軍隊並みの支配を受けていたという点では、一般開拓団とは異なる苦艱を経ている。極寒の荒野という悪条件で過酷な労働を強いられ、堪え忍ぶことが日本男児であると教え込まれた。開拓精神とは、何ものにも挫けず突き進み切り開く意志の堅固さに支えられていなければならなかった。

 満洲開拓は日本人として天職であり、道義的大陸政策の拠点であるという指導者の錯覚は、まだ批判力の少ない隊員に浸透してはいなかった。軍国主義に批判できるようになるには、終戦と二十歳になることを要した。

  義勇軍を送出した各県の順位が付いていた。昭和二十年五月現在の総計で香川県は二三七九人で全国十二位の多さだった。

 齢十五の少年が香川県下で二〇〇人もそろって志を立て義勇軍に行くとは思われない。そこに何かがあったはずである。茨城県内原訓練所の応募動機の調査によると、教師の指導によるのが圧倒的に多い。当時高小二、三生のうち、農家の二、三男で身体的条件の整った者を担任が勧誘した。各小学校毎に割当てがあったからである。気が重い担任も校長から強く要求されると、じっとしておれず本人を説得する羽目にも陥った。統計上二番目に多い「本人の意思」で応募したことになっていても、かならずしもそうとは限らない。家族反対者統計もあって、父親よりも母親が多く反対をしていたが、それを押し切って応募しているのが目に付く。

 三ヵ月の内地訓練が終わると、第二の祖国建設を夢見て、現地訓練所に向かう。香川県から派遣されたのは北満の嫩江訓練所・対店訓練所が多い。戦局が急変するのに即応して、その後の開拓団入植地も北辺の守りに備え、ソ満国境に近くに配属される。

 第三次野口中隊は、北安省克山の北方昭明開拓団であった。第一次義勇隊が旧団として男子はほとんど出征してその跡を守る形であった。そこに合併することは喜ばれた。

 昭和二十年八月十四日夜半電話にて照明開拓団員は召集を受けた。直ちに克山へ出発した。団長が団員を引率して克山に到着。と同時に孫呉へ向け出発のため軍用列車に乗り込んだ。その途中ソ連機の襲来を受け、出発不能になり、そのまま待機していたが、克山の守備隊より停戦になったから一応引揚げよとのことにて部隊まで引揚げた。翌日部隊の整理をして部隊長より「停戦のやむなきに至った。自信のあるも者は逃げよ」との宣告を受けた。ただ団本部としてはできる限りまとまって行動したいが、自由行動もやむを得ない。

 大混乱の中で団全体の行動をすることは危険であるし、不可能であることは分かっていた。生死を共にする覚悟で渡満したのに、このような離散は慚愧の至りであった。

隣の芙蓉開拓団は集団自決した。女子供を家の中に閉じ込め、外から油をかけて燃やしたとも伝えられる。自決しかねた十人ほどが、照明開拓団に身を寄せてきた。肉親を殺して殺気だっていた。その人たちは何かをしなければ気が収まらなかった。鬱憤を晴らす何かを求めていた。三人別々に捕えていた斥候を片付ける役目を担うことになる。

日本人居留民会に問い合わせても、不得要領で、引揚げはなかなかはかどらなかった。飢えと寒さで収容所での越年は大変だった。昭和二十一年五月からやっと引揚げは始まるのだが、それが待てず二月三月、ばたばたと死者が増えた。

 義勇軍開拓団の公式記録は次のようになっている。香川県第五次・北安省克山・昭和二十年入植・在籍二二二名・応召一一名・死亡二一名・未帰還五名・帰国一九六名・越冬地長春一一〇他は瀋陽(奉天)

 帰国した旧隊員による慰霊祭は戦後二十年で終わり、対店野口会も長くは続かなかった。なんとかして中隊の記録を残したいと我が家の資料と隊員から聞き取った彼の地での体験談をまとめた中隊誌が実録『鍬の戦士』である。これだけではもの足らず、残留孤児の親探しに心動かされ、一人で現地満洲に行き、父が死んだ奉天の地に立ってみたくなった。すでに戦後五十年が過ぎていた。

 飛行機から降り立った奉天。身震いするような春寒の奉天。妻子の待つ故国日本にどれほど帰りたかったであろうか。隊員も連れ帰しえず客死する無念さ。

 数年後には厚生省後援の戦没者遺児による現地慰霊訪問。日中友好という名のもとに、中国東北地区(旧満洲)への旅はまた、感慨深いものがあった。二十人の同行者は全てこの地に父親を喪った者であった。

 拙作に『父の帰還』と名付けられた2005年刊の剣持文庫がある。その解説は愚息が次のように述べている。

 本書『父の帰還』によって、大陸に彷徨したしたままだった「父」の士魂を鎮魂し、恋しき父の帰還を果たしたのである。

『父の帰還』は次のような小品五編から成っている。           

「父の風景」は、遺骨で帰ってきた。もたらされた遺言状には「生涯の言行これ皆遺言と思はれたし。吾今国の為に死す。死して君親にそむかず。今不慮の事故に倒るとも決して悔いる勿れ」とある。父が自決かもしれない疑念から、最期を看取ったという隊員までたどり着くが、不得要領であった。見知らぬ男の告げに来た「自決」が本当かもしれない。

「孤燕」は残留孤児が来日、毎年のように肉親捜しをしていた頃の話である。劉桂蘭と名のる女性が、私の異母妹かもしれないと会いにゆく。しかし、これも要領を得ぬまま別れるという筋書き。

「亡父との対話」は終始一貫、亡霊の父と戦後を遺児として生き延びてきた子との対話によって成り立つ戯曲形式。満州開拓は聖業なりと信じ、第二の故郷を築かんとした父親への対抗心が迸り出る。

「父の大地」は父の死地奉天に立って供養してあげたい念願を果たす。あの頃もしも早めに母子四人が呼び寄せられていたならば、おそらく残留孤児になるか死んでしまっていただろうと思う。

「帰燕」は戦没者遺児による慰霊友好親善事業に参加、満洲再訪。日本遺族会が中国東北地区に遺児二十名の団体旅行である。私は前に一人旅で父親を供養してあげているので、今回は亡きくなった隊員への供養の気持ちが強かった。連れ帰しえなかった父の責任を感じ、謝罪したい思いが強かった。そして、なにより一人の残留孤児に対面し、その親探しに努力したいと約束する結末。

 その後、我が市内に中国残留孤児が住んでいることを知り、市の遺族会で体験談を語ってもらうことになった。八歳のKさんは昭和二十年三月家族七人満洲牡丹江の開拓団に入った。私は父の開拓団に母子四人この時期に渡満する直前で中止した。治安の悪化が予見されたからである。Kさんの両親は死亡、兄妹五人は残留孤児として戦後五十年Kさんは帰国をはたしたが、その間紆余曲折があった。

 退職後は、毎日のように墓地巡りをしている。西讃の町村毎の軍人墓地数十ヵ所。一般墓地にも戦死者の墓碑はあるが、なかなか見つけにくい。地区によって先の尖った形たちにしてくれていると分かりやすい。個人碑にもせず、家族に入れ込まれていると、見落としやすい。

 満州牡丹江五河林開拓団で一家六人が戦死・病死した年月日・行年を刻んだ碑に巡り合う。それを自分には関係ないと、見て見ぬふりをして、黙殺すれば戦争犠牲者は二度殺したことになる。モーゼの十戒には「汝殺すなかれ」とある。私は言いたい。「汝戦没者を黙殺するなかれ」と。

 それは他の人に対してでもあるが、自分自身に対しても言わねばならない。ともすると自分に捉われがちで、すぐ横のお墓にも無関心になりがちである。いつも供華のない、遺族の途絶えた墓が横にあれば、一本でも供えてあげたい。見捨てられる軍人墓地は、地域共同体で守っていきたいものである。千年もすれば、古墳になる。昭和の歴史遺産として軍人墓地を永久保存するよう、今私は発起人になろうとしている。

 もう手遅れになろうとしている地区が二三あるが、「全国無比」を標榜する仁尾町に準じて西讃地区がその気になってくれることを念じている。

 今や戦後七十五年が過ぎた。我が地域共同体(旧三豊郡)戦没者六四八〇柱の墓碑の前で戦没者の声なき声」と対話し続けている。

     過ぎし日の昭和の戦禍忍ぶ今

      令和コロナ禍に耐えて生きゆく                令和2年11月7日 記

 

〔参考資料〕  香川県海外開拓者殉難之碑 

昭和拾弐年、果てしない満蒙の荒野において、一万有余名の人々が開拓と食糧増産に懸命に取り組んでいました。開拓団五千九百余名、義勇隊二千七百余名、報国農場隊一千百余名、花嫁女塾二百余名が、十八の出身母体から集結したこの人たちは、零下何十度の厳寒に耐えながら、海外雄飛の夢を抱き日本の発展に尽くす熱意に燃えて、新しい村造り国造りに励んでいました。村を襲撃されるなど幾多の苦難の末、ようやく安住できるようになったのも束の間、昭和十六年十二月八日、突如大東亜戦争が勃発し戦火が日増しに激烈さを増す中で若者は次々と召集され開拓地は戦場となりました。残された女性老人子供は相次ぐ外敵の襲来にさらされ、各地に離散を余儀なくされたのでした。こうした中、昭和二十年八月十五日に終戦を迎えました。寒さや飢えとたたかいながら、救いを求めて一歩でも母国に近づこうとさまよう中で、栄養失調や病気に苦しみ、母を子を友を失い一家が全滅し、ついには足手まといになるまいと自ら命を絶つ者が出るなど、悲惨な状態が続きました。生きて祖国日本の土を踏んだ者は一万余名のうち約三千八百名にすぎませんでした。これはひとり満蒙開拓団だけのことではありません。朝鮮、台湾、樺太、南方方面、さらに遠くは南米、北米等でも、開拓者の苦難と辛苦は同様です。無事帰国できたものはまだしも幸いで、志なかばにしておわった人々の無念の思いは今もなお、その地に残っているに違いありません。終戦後三十余年を経た今、往時をしのんでこれら海外開拓に携わった人々の御魂を祀るため、殉難の碑を建ててその功績を誌すとともにご冥福を祈念するものであります。

     昭和五十六年三月吉日 

     香川県海外開拓者殉難之碑建設会    高松市田村神社に建立

    『明治百年 香川県の歩み』 昭和四十三年 毎日新聞社高松支局刊