自叙伝

   自分には大学教授のような研究論文があるわけでなく、万葉関連エッセイが数十編ある程度のささやかな雑学者趣味人に過ぎない。私のひそかなホームグランドは「随筆無帽」を毎月発行する無帽の会である。ここにこれまで、万葉集に関するエッセイを二十年継続的に発表した。それに『万葉集』全歌四五一六首を色紙に筆ペンで書き、水彩画の絵も添えた。

 これまで誰もしなかったことだと思っている。朗唱して味わうのも犬養孝先生のなさったことである。曲に乗せて歌った歌姫もあった。そのブームが終わると、それも廃れて消えてしまう。色紙に書いて・描いて保存できないものだろうか。そのような算段で「万葉歌の色紙化」を私流に始めた。美術品ではなく、文学鑑賞用である。「万葉色紙展」は坂出万葉会館でも、観音寺市文化施設内で展示発表会を催した。見に来た人にはお気に入りの色紙一枚進呈というサービスがあった。玄関先に掲げていますよとよく言われた。中には、春夏秋冬四枚の色紙がほしいと言われて、もらい受けられたこともある。何人かいた。一年中万葉の歌を飾っているらしい。

 大体、私の絵は薄っぺらであるが澄明、絵葉書的で、深みはない。先生に付いて習ったことがないので画法に発展も深みもない。昔に変らない綺麗で清潔な絵である。薄汚い絵は一枚も描いたことはない。しかしながら、小豆島で描いた数百枚の水彩画が今も飾られているとは思わないが、タンスの裏の方に今も貼ったままあるという女生徒(八十歳近い)も健在である。

 作家の端くれにも入らないが、四十二歳で香川菊池寛賞をもらって以来、一応県内ではローカル作家の中には入れてくれている。地元観音寺に縁のある山崎宗鑑の一代記『俳諧の風景』がデビュー作。諧謔俳人で深みがない欠を補うためにも講演では、「西行と宗鑑」をテーマにするのが普通だった。在職時代から継続して研究の対象にしている。『西行伝説の風景』は香川県内だけでなく県外各地まで伝説探訪に出かけて書いた随筆風のものである。

 受賞作品小説『俳諧の風景』は剣持文庫にも入れており、遅ればせながら最近RNCラジオで朗読放送もされた。郷土につながる作品を書くのが私のサービス精神である。

朝日新聞同人誌評で「足元の過去点検」の動きとして私の作品傾向を捉えてくれたこともある。その例として「ミートキーナに死す」と題する森川義信伝がある。いわゆる戦争ものとも言えなくはないが、薄命の詩人文学者には格別の思いがある。

 永遠の旅人であり続けたい人間、文学者、俳人。その筆頭は芭蕉松尾芭蕉は僅か五十歳で蕉翁などと呼ばれ、大坂で客死。讃岐には渡って来られなかった。芭蕉来讃の白昼夢、絵空事を書いてみたりする私(今芭蕉)である。更には、それには飽き足らず『芭蕉との対話』を試みる。芭蕉全発句に七七の付句を試みる。黙ってもの言わない故人に語りかける令和の奇人である。お笑い種にもならないであろうか。当意即妙、出まかせといおうか、付け足しといおうか、付随してくる情景、あるいは説明補足という乱暴なやり方なので顰蹙を買うと言えようか。

 本を出しても一顧もしてくれないと、著者は淋しくなる。時が経てばまた評価してくれるかもしれないと諦めてはいる。伯楽は常にはあらずと嘯いてもみるのである。売れない本ばかり書かないで、もっと面白い本書きませよと忠告してくれる人もある。読者を面白がらせる、または感動を与える内容、そんな小説を書けるような才能を持っていないし、そういう努力もしていない。視野の狭い学校教育現場の人間模様とか、僅かな文献資料から想像した人間関係のもつれを書いたとて、読者に興味は持たれない。もっと斬新な手法でプロットを構築し、創作表現がなければだめだ。解説ばかりして生きてきた教員がなんで新鮮な感動を与える小説作品が書けるものか。今更じたばたしても始まらない。

 いずれにしても、文学的履歴中心に回想した文章になっている。あらためて考え直してみると、家庭内とか社会的つながりが欠落しているのに気が付く。これが自分の自己中心主義の生き方であったのか、と反省する。自伝など残すつもりでもなかったので、急遽ニ三ヵ月でまとめてみたもので、何年も推敲して仕上げた労作などではなく、過ぎ来し方の日録メモみたいなものである。