山崎宗鑑略伝~芭蕉へ

   【俳祖山崎宗鑑略伝】~芭蕉
 一、宗鑑略伝
連歌師俳諧作者。生没年未詳」これが現在俳諧文学の客観的位置づけである。
 俗名志那弥三郎範重(一説に範永)、将軍足利義尚に仕えたが、その陣没の折に剃髪、尼崎、次いで山崎に隠棲したとされる。(『滑稽太平記』『雑々拾遺』『題伝明名録』) 洛北山崎(京都府大山崎町)に住したことから【山崎宗鑑】と称される。
俳諧撰集『俳諧連歌抄』(江戸初期版本では『犬筑波集』の編者と伝えられ、同時代の守武とともに俳諧独立の基礎を築いた。本来「俳諧連歌」は言い捨てるものであるが、それを収集記録し後世に遺した宗鑑の功績は大きい。
 出自・閲歴・没年などは諸説あり、明確を欠く。また、風狂。飄逸の人としても伝説化された。史実と伝承を明確に峻別することは難しいことではあるが、できる限りその虚実を確認するとともに、分かち難いところはそのはざまに置いたままに、あるいはあえて推定も試みておきたい。
〔閲歴〕長享二年(一四八八)三月、摂津国芥川城主、能勢頼則興行の連歌『能勢頼則千句三物』に「露ものいはぬ山吹の色」(正純)/霞にも岩もる水の音はして(宗鑑)」の句が録されている。連衆は宗祇・肖柏・宗長や能勢氏・池田氏など摂津在住の武士。  さらに延徳四年(一四九二)三月にも同様の顔ぶれで興行された『賦初何連歌』に「峰の嵐に月のこる見ゆ(実任)/秋やはや雁が音さむし深ぬらん(宗鑑)」の一句が載る。
 連歌師として宗鑑の作品は現在この二例が知られるのみで、中央における連歌活動については所見がない。
 山崎の富裕な油人たちが組織する霊泉連歌講などで指導にあたっていたものと思われる。
 宗鑑は一休宗純を敬仰し、延徳三年、大徳寺真珠庵再建に際して一〇〇文を寄進、以後明応二年(一四九三)には五〇〇文、永正七年(一五一〇)には一貫文、さらに享禄三年(一五三〇)には入牌料一〇貫文の代りに柯山や子庭の絵を納入している。〈『真珠庵文書』〉。
 宗鑑が一休に直接参禅したかどうかは不明であるが、一休の自由な考え方が宗鑑の俳諧愛好に精神的なよりどころを与えたものと考えられる。
   享禄三年、真珠庵桐椿首座に宛てた書状には「宗鑑(花押)従山崎」とあり、この時期山崎に住んでいたことが確認される。
 宗鑑の没年は、天文十二年(一五四三)八五歳説、〈『滑稽太平記』〉ほか諸説あるが、天文八~九年没、享年七七~八六前後とされている。
 晩年讃岐国観音寺に赴き興昌寺一夜庵に没したとする『一夜庵建立縁起』などの説については、現在確証がない。
 
  二、宗鑑伝承としての 「沓音天神」
『弘化録』は、空・風・火・水・地の五巻から成り、同寺の第七四代住職光遍法印が編集。大宝三年(七〇三)から弘化二年(一八四五)までの寺歴や観音寺周辺の出来事、国家の歴史的な事象を歴代住職ごとにまとめた寺伝。この中の天文十六年(一五四七)の欄に「宗鍵居士宇多津ノ人、牡丹花老人ノ門弟、高名ナリ、初雁の声やあかひち秋の月」とある。この時宗鑑が一夜庵に在住していれば、関連記事があってもよいが、それはない。その後七六年経た元和三年(一六一七)の項に「沓音天神」伝承がやや詳しく記載されている。要所を数ヵ所摘出しておく。
  上波往中波日暮レ下波夜万伝一夜泊里波下々乃下乃客(上は往に中は日暮れ下は夜まで一夜泊りは下々の下の客) この歌は今も伝えられている。
  満円久出天母長幾春日哉(まん円く出でても長き春日かな)この句は一夜庵への使いの童子に宗鑑が与えた一句である。翌日も求めに応じて
  蒔曽免之種子也一粒満武某花(蒔きそめし種子や一粒万倍花) 
童子はまた嘆じて一会を催さんと言う。
その後、宗鑑の手を借りて行くと言って借りて帰り、翌日返しに行く。宗鑑が字を書いてみると妙なる字が書ける。不思議に思って後を付けてみると、観音寺境内で
止まった。従是後号ス沓音天神ト、今松下ノ宮是也(これより後沓音天神と号す、今松下の宮是なり) 
 
 三、俳祖宗鑑と俳聖芭蕉
 俳祖宗鑑の終焉の地に住む者にとって、俳聖芭蕉との関連を無視することはできない。有り難き姿拝まん燕子花貞亨五年夏。『笈の小文』の旅を須磨明石で終えて、京都乙訓郡大山崎の宗鑑遺跡を訪ねて。貞亨五年四月二十五日付猿雖宛書簡に初出。その昔、近江公は、痩せこけて乞食のような山崎宗鑑カキツバタを取っているのを見て、「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」と詠んだ。  
  宗鑑の姿をかつて三条西実隆に「餓鬼つばた」と貶されていたので、宗鑑の名誉回復のために、芭蕉は宗鑑を「ありがたき姿拝まんかきつばた」と詠じたという。
 瘧(悪性腫物)を病んだ山崎宗鑑に近衛公が戯れた「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」に宗鑑が「飲まんとすれど夏の沢水」と付けた。
 芭蕉がここで、宗鑑の名誉回復のために「有り難き姿拝まんかきつばた」と詠む。出典は『泊船集』「山崎宗鑑か舊跡」と前書がある。
 
 四、早苗塚
  早苗とる手もとやむかし志のふ摺    はせを
 この句を刻んだ「早苗塚」が琴弾八幡宮鳥居横にある。芭蕉奥の細道の途次、福島で詠んだ句の直筆短冊を拡大刻印したもの。地元の小西帯河が所持していて、一茶の師二六庵竹阿の指導で建立。竹阿とは一茶の師匠で、後ほど一茶が専念寺に来る先鞭をつけたことになる。安永四年(一七七五)当時一夜庵主は冠季で、一所に連句を巻いている。時あたかも宗鑑二百年忌で、興昌寺一夜庵で記念碑も建てている。同時にここ八幡宮門前という絶好の場所に芭蕉の句碑を建てさせている。「昔鑑師は反笠を愛し、蕉翁は檜笠を愛し給。これに便りて俳諧二ツ笠といはん」と『俳諧二ツ笠』の序文を書いている。この地は俳祖宗鑑とともに俳聖芭蕉をともに大切にする俳諧の里として啓蒙的な意味合いがあったと推察される。
 この年は宗鑑没後二百年忌で一夜庵横に「宗鑑法師之塔」が建てられた。今は崩れかかった五輪の塔である。
 
 五、短歌の俳句化
  貸し夜着の袖をや霜に橋姫御
この句碑は昭和三十二年十二月建立された。句意は「貸衣装の夜着の袖を霜に濡らしている遊女・橋姫さんよ」とおどけと憐れみをこめた発句。この句には本歌がある。『新古今和歌集』の「橋上ノ霜といふことをよみ侍りける 法印幸清
  片敷の袖をや霜に重ぬらむ月に夜がるる宇治の橋姫
 宗鑑真筆の極のある短冊を池田米太郎氏が所蔵している。
 宗鑑がこの短歌を書写している間に、これを俳句にまとめようとしたことが想定される。「かし夜ぎの」だけが宗鑑の創作であって「袖をや霜に」「橋姫」は書体も
内容も酷似している。俳句は発句の独立というのが俳諧史の常識だが、私はここに〈短歌の俳句化〉という重要な形式変化を見る。
更に、この歌の本歌として『古今和歌集』に「さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむ宇治の橋姫」がある。
 また、『万葉集』にさかのぼると、「吾が恋ふる妹は逢はさず玉つ浦に衣片敷き独りかも寝む」(巻九―一六九二)がある。独り寝をかこつ古来の常套語として「衣(袖)片敷き」という表現があったことが分かる。独り寝の淋しさが歌のモチーフになり、繰
り返し歌い続けられてきた。ともあれ、この句の手柄は上五「貸し夜着の」を持ちこんで俳味出したことである。雅語としての歌語ではなく、俳諧的俗語を導入している。
六、宗鑑の遺墨
 興昌寺保存のもの「紫金仙勧進帳」「徳寿軒宛書簡」「和漢朗詠集(菊)」「短冊句(かし夜着の)」と数は少ない。巷間に流布されているものは数多く、全貌を掴めていない。広く宗鑑の筆跡は珍重されている。最も多く収集保存されているのは、出身地草津市である。我が観音寺市は興昌寺の数点以外に市民の個人蔵はあっても、調査しきれていない。茶掛け、軸ものとして今なお鑑賞されるほど妙味ある筆跡である。藤原行成世尊寺流の書法を汲み、飄逸風狂味がある。花押の有無にかかわらず、宗鑑筆の書を持っていると、火災に遭わないとも言われて珍重される。
 その場限りの俳諧連歌に興じて書き捨てが多かったが、それだけではなく、宗鑑は文字を正確に書写する才もたけていた。『新古今集』写本の中でも善本として評価が高い、筑波大学所蔵の写本『新古今和歌集』は、宗鑑によって書写され、 同和歌集の最も信頼される伝本の一つとされる。
 
 七、宗鑑の没年・終焉の地
 享禄三年(一五三〇)、宗鑑は興昌寺一夜庵に住み始めたとにしているが、これは推定に過ぎない。『俳家奇人談』の没年から逆試算したものである。
「真珠庵主桐椿公宛書簡」が大徳寺に所蔵されて「八月九日」とあるが、年代が記載されていない。
「紫金仙勧進帳」は興昌寺釈迦堂再興のための十方檀那の芳志を募る趣意書であるが、肝心の年代が記載されていない。 識者の筆跡鑑定では、ほぼ間違いなく宗鑑直筆と見なされている。
 宗鑑の没年には諸説ある。天文十二年(一五四三)八十五歳説〈『滑稽太平記』〉ほか諸説ある。「天文癸巳(二年)小春十三日、行年七十有余、宗鑑(花押)〈『宗鑑書法訓』〉、「行年七十五、宗鑑在判」〈松羅館本『俳諧連歌抄』〉などの年齢や、「天文己亥(八年)二月日、宗鑑(花押)」〈謡本『百万』奥書〉の年次などから、天文八~九年没、享年七十七~八十六歳前後と推定されている。
観音寺市では「天文二十二年(一五五三)旧十月二日、八十九歳没の通説に従っている。四百年忌を昭和二十六年(一九五一)十月二日に四百五十年忌を平成十六年(二〇〇四)十一月七日に行った。
 辞世「宗鑑はどちへと人の問ふならばちと用ありてあの世へと言へ」
いつから伝承されるようになったか、典拠は見つけられない。
「用」には「廱」が掛けられていることは、周知のとおりである。宗鑑は皮膚病(できもの)で亡くなったと語り伝えられる俗信がある。その根拠・古記録はない。ただこの狂歌は飄逸・諧謔味があって、いかにも宗鑑らしいということで受容されている。正式の俳諧文学史からは無視されている。
 供養塔・墓趾はあっても、史実年代を裏付けできる資料は未詳である。いつの頃からか伝承として守り続けている。新資料の発見が待たれるところである。
 主要参考文献『弘化録』神恵院観音寺蔵、『俳文学大辞典』角川学芸出版(平成二十年刊)、『興昌寺誌』興昌禅寺平成大改修記念(平成二十六年刊)