『成り立ちで知る漢字のおもしろ世界』伊東 信夫
漢字のもともとの姿を知るには、白川静博士の『字統』『字通』に拠るのがいいだろう。「白川文字学」と言われる漢字の成り立ちの学問的説明である。
たとえば「名」の字の説明は、多くの辞書に、次のように書かれている。
会意文字「夕」+「口」。夕方薄暗がりの中で人に自分の口で「な」を言う。
よく分かる。しかし、この漢字の正しい起源は次のように見るのが正しい。
「夕」は祖廟に供える祭肉の形。「口」は神への告げ文を修める器の形。生まれた子に
本名を告げる儀式の時に使う。
たとえば「武」は、「ほこ(武器)」と「止」の会意文字。武器を止める戦争抑止力であって、先制攻撃を意味しない。これも間違い。なぜなら、「武」の中の「止」は元来「とまる」ではなく、反対に「すすむ」という意味である。何よりの証拠は「歩」の上の「止」は「すすむ」のはずである。「武」はやっぱり武器を持って進撃するのである。
「文武両道」を教育の方針に掲げるのはかまわないのか?
たとえば「休」は、「人」が「木」に寄りて「やすむ」会意文字。多くの人はもっともだとするところであろう。しかし、「金文」の銘文によると、旁は「木」ではなく、「禾」(軍門)だという。すなわち「休」とは、野戦の陣営の休戦状態なのだ。
以上のように、具体的に漢字一字一字の成り立ちを白川静独特の掘り下げ方で見ていくと、限りない漢字の底の深さに取り憑かれてしまう。漢字の魅力は日本文化の魅力でもある。漢字【本字】を捨て簡体字にしてしまった中国の【轍を踏む】べきではない。
今日会った中国からのエリート留学生猛さんとの会話…
「私たち高校生、『孟子』など昔の中国古典も教科書みな【簡体字】ですよ」
「それでいいんですか」と私。
「生まれたときからそれですから、何の不思議もありません」
「瀋陽の《瀋》は【沈】になっていますね。いわゆる沈(しずむ)との区別は?」
「旁が《冗》なっているので、区別できます」
「なるほど!」
たとえば「名」の字の説明は、多くの辞書に、次のように書かれている。
会意文字「夕」+「口」。夕方薄暗がりの中で人に自分の口で「な」を言う。
よく分かる。しかし、この漢字の正しい起源は次のように見るのが正しい。
「夕」は祖廟に供える祭肉の形。「口」は神への告げ文を修める器の形。生まれた子に
本名を告げる儀式の時に使う。
たとえば「武」は、「ほこ(武器)」と「止」の会意文字。武器を止める戦争抑止力であって、先制攻撃を意味しない。これも間違い。なぜなら、「武」の中の「止」は元来「とまる」ではなく、反対に「すすむ」という意味である。何よりの証拠は「歩」の上の「止」は「すすむ」のはずである。「武」はやっぱり武器を持って進撃するのである。
「文武両道」を教育の方針に掲げるのはかまわないのか?
たとえば「休」は、「人」が「木」に寄りて「やすむ」会意文字。多くの人はもっともだとするところであろう。しかし、「金文」の銘文によると、旁は「木」ではなく、「禾」(軍門)だという。すなわち「休」とは、野戦の陣営の休戦状態なのだ。
以上のように、具体的に漢字一字一字の成り立ちを白川静独特の掘り下げ方で見ていくと、限りない漢字の底の深さに取り憑かれてしまう。漢字の魅力は日本文化の魅力でもある。漢字【本字】を捨て簡体字にしてしまった中国の【轍を踏む】べきではない。
今日会った中国からのエリート留学生猛さんとの会話…
「私たち高校生、『孟子』など昔の中国古典も教科書みな【簡体字】ですよ」
「それでいいんですか」と私。
「生まれたときからそれですから、何の不思議もありません」
「瀋陽の《瀋》は【沈】になっていますね。いわゆる沈(しずむ)との区別は?」
「旁が《冗》なっているので、区別できます」
「なるほど!」