山崎方代 1914~1985 (大正3年~昭和60年)
昭和十六年、二十七歳で召集。翌年、チモール島クーパンの戦闘で砲弾の破片を浴びて右眼失明、左眼視力0・0一となる。二十一年五月、病院船で帰還。年末に退院。「兵隊にとられ、戦争に引っぱっていかれた七年間のあいだ、私は、心の底から笑ったことは、ただの一度もなかった。……何のために、人殺しの訓練をして、人を殺さねばならんのか、まるっきりわからない。まさに私にとって軍隊生活は地獄の苦しみだ」(「あじさいの花」)
昭和十六年、二十七歳で召集。翌年、チモール島クーパンの戦闘で砲弾の破片を浴びて右眼失明、左眼視力0・0一となる。二十一年五月、病院船で帰還。年末に退院。「兵隊にとられ、戦争に引っぱっていかれた七年間のあいだ、私は、心の底から笑ったことは、ただの一度もなかった。……何のために、人殺しの訓練をして、人を殺さねばならんのか、まるっきりわからない。まさに私にとって軍隊生活は地獄の苦しみだ」(「あじさいの花」)
母の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日のおもいよ (一路)
茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ (方代)
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております (こおろぎ)
私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう (右左口)
なるようになってしもうたようであるが穴がせまくて引き返せない (迦葉)
茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ (方代)
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております (こおろぎ)
私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう (右左口)
なるようになってしもうたようであるが穴がせまくて引き返せない (迦葉)