俳祖山崎宗鑑終焉の住まい「一夜庵」(香川県観音寺市)の茅葺屋根の修理が来年に迫っている。二十年の耐久しかないとされる二十年を越えて数年になる。先延ばしはできない状況にある。本年度より多くの方々の関心と援助をお願いしておかねばならない。
かつては小麦藁で葺いていたが、昭和半ばより葦(アシ)藁で葺くことになっている。その調達が容易ではない。姉妹都市草津市による琵琶湖岸辺に自生する葦も、環境保全のこともあり、容易に進まない。我々が拱手傍観できる訳はない。一年後に控えた一夜屋根の葺き替えは簡単に進められない。伝統文化財遺産の継承に多くの皆様のご協力をお願いいたします。
【一夜庵】 観音寺市八幡町
宗鑑は近江の武家の生まれで、若き日に京で将軍足利義尚に仕えたが、義尚の死後、出家して僧となった。山城国山崎に住んで連歌などに親しみ、俳諧の祖と言われている。
享禄元年(1528)、西国へ行脚し興昌寺(観音寺市)梅谷和尚を頼ってきて、ここに庵を結んで住んだ。
上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊りは下下の下の客
庵には連歌を志す者が多く訪れたが、コノ掲示に「下下の下の客」と書かれてあっては、泊まって行きにくくなったが、宗鑑の本心は、かえって泊まって行く客を期待したかもしれない。この歌から「一夜庵」と呼ばれるようになった。
享禄元年(1528)、西国へ行脚し興昌寺(観音寺市)梅谷和尚を頼ってきて、ここに庵を結んで住んだ。
上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊りは下下の下の客
庵には連歌を志す者が多く訪れたが、コノ掲示に「下下の下の客」と書かれてあっては、泊まって行きにくくなったが、宗鑑の本心は、かえって泊まって行く客を期待したかもしれない。この歌から「一夜庵」と呼ばれるようになった。
天文二十二年、八十九才でこの地に没した。
辞世 宗鑑はどこへと人の問ふならば、ちと用ありてあの世へと言へ
辞世 宗鑑はどこへと人の問ふならば、ちと用ありてあの世へと言へ