校訓「為さずんば、なんぞ成らん」

 為 す      
 米沢藩主上杉鷹山の次の教訓歌は衆知のものだ。
為せば成る為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり
人が営為として「為す」(他動詞)と、結果として「成る」(自動詞)の関係がよく分かる。
中国の古典に遡れば、『書経』に次の短句がある。
 弗為胡成(為さずんばなんぞ成らん)
これを校訓としている高校は、長野県飯山北高等学校、そして香川県三豊市上高瀬小学校である。高校生で漢文の句法を習えば理解できようが、小学生にはあまりにも難しい。しかるに、校門を入った所に大きな石碑として昭和五十六年に建立されている。この地の書家貞広観山先生が書いて母校に贈ったものである。以来三十年この碑は碑文が薄れもせず堂々と立ち尽くしている。
この学校の校長や教職員がこの警句の意味を児童たちに説明したがどうか、はなはだ心もとない。言い回しがいかにも古く、共感される措辞ではない。かと言って「しようとしなければ、どうしてなしとげられよう」と訳したところで、説得力がなく、もてあますのではなかろうか。「弗」「胡」は教育漢字に入っていないのは言うまでもなく、常用漢字でさえない。「ずんば」の条件法、「なんぞ」反語法が高校生でさえ厄介で、小学生にはまさにちんぷんかんぷんであろう。
それにしても、このような学校碑が建っている学校には、幾多の俊英が育っていったにちがいない。自らの「努力」がなければ、何も始まらない。自主・自律ではインパクトはない。「なさずんば、なんぞならん」という言い回しがあって、初めて人に迫る表現の力がこもる。
用字法が問題である。高校・大学ならいざ知らず、小学校である。原典とは違っても、分かってもらえる親近感を大切に「不為何成」に変えてほしかった。学校当局に提案することなく、一方的に大学の先生で書道の大家が揮毫、母校に寄付するのに、文句の付けようがなかったのではないかと推測する。誰にも読めなくても、中国古典に典拠のある名文句だから、そのまま刻み込み、校門近くにこれを堂々と建てたには、異論がないとは言えまい。
これに対して支持賛同派に立てば、言葉に重厚性があり含蓄深いものがあって、そんじょそこらの安っぽい校訓とは違う力がある。ここから活力に漲る俊英たちが育ってほしい。何より、自力で立ち上がり、進んで行動する「生きる力」を原点にしてほしい。できなかったのは、しなかったのだという厳しい自己反省に立ち、不平不満を口にせず、原点から鋭意努力する気構えが必須である。多少の難解さを超えて表現の奥の奥を見通し、発奮することがすべての始まりである。後で気がついた時はもう遅い。初めにこの難解語の訴える真意を察知して、真に目覚めることが大切である。
真相実態は知らないが、この四文字教訓語を自らのモットーとして立派な人になった人がいると信じたい。
次に、菊池寛座右の銘を紹介しなければなるまい。
 不実心 不成事 不虚心 不知事
これを「実心ならずんば、事成さず。虚心ならずんば、事知らず」と訓読するのが普通である。
気になるのは「事成さず」である。「事成らず」の方が正しいのではないか。確かに他動詞「成す」自動詞「成る」のどちらも使え、どちらでも通じるが、ここでは自動詞「成る」の方が適切であると私は確信している。「成さず」を否定はしないが、どう考えても「成らず」の方が適切である。この短文の構成は、〔条件+帰結〕である。即ち「こういうことをしていると、こうなりますよ」と単純に考えればいいのである。それでこそ筋が通る。
そこで、一般の読みには私は従えず、次のように読んでいる。
 不 実 心  不 成 事
(実心ならざれば、事成らず)
 不 虚 心  不 知 事
(虚心ならざれば、事知らず)
古来、日本人は「なす」「なる」を厳しく使い分けた。人事を尽くして天命を待った。「為す」「成る」と使い分けなければ、先祖に申し訳ない。