戦争の昭和を総括する平成末年

   
     昭和の総括は平成の末年、ささやかな田舎の片隅から        
                                               みとよの戦世を伝える会                      

 平和ボケした平成の末年、戦争の昭和を総括するには絶好の機会である。この時を逃せば永遠に日本の戦後はうやむやのうちに終わること間違いない。このことに気づいたのは、そう早くはない。
 自分のできることは身の周り、足元の過去点検、戦争の傷跡を地域(香川県三豊郡)に限ることだ。全く間違っているのは観音寺市三豊市が西讃にあって、必ずしも連携を取らず、戦時体験集を別個に発行して平気でいられる無神経さである。当時三豊郡の町村ばかりの共同体であったことを忘れているのか。、それは知らない。今、そんな批判をしている余裕はない。
「みとよ共同体」隣組の時代の意識に返って、戦時の懐かしくも哀しい時代の空気を胸いっぱいに吸い直さねばならない。非体験者にも分かり易いように、わずかに遺された戦時遺跡を紹介し、説明は最小限にして、映像に語らせたいと思う。舌足らずの表現になってしまおうが、戦禍の片鱗に触れ、戦争と平和について語る糸口になってくれれば、それでいい。
 第一に痛感するのは、軍人墓地の危機である。これまで地域で共同参拝していた墓碑を持ち帰る傾向にある事だ。戦後50年までは考えられなかったことが、今や平気で持ち帰られ歯の抜けるように軍人墓地から墓碑が消えつつあることを一般の方は知っているのだろうか。知っても関心はなく、どちらでもいいことに思われるだろえか。時代遅れの軍人墓地はなくなった方がいいと思われる人があるかもしれない。
 第二に戦時中の碑の是非についてである。当時を思い出す「戦争協力」の石碑が戦後70年を越えてなお遺るが、そのままにしていいのか、廃棄処理する時期に来ているのかどうか、という問題である。例えば、戦意高揚を訴え国民を煽り立てた「八紘一宇」が道沿いに堂々と立っている。また、A級戦犯の名前が軍人墓地入り口にそのままにあることなど。
 第三に、どこまでが遺族かということ。何親等までかなど。本人の親は一人もなくなって、戦争未亡人も少なくなっている。戦争遺児の子はまだまだ多い。やがて孫の三代目になる。ここまでが精いっぱいの遺族。三親等を越えると、遺族と言うのも際どくなる。直系なれば、いつまでも遺族が続くのだろうか。遺族が薄れなくなっていくとすれば、軍人墓地は誰が墓守りするのか。
 第四、旧三豊郡内の軍事遺跡は次の四ヶ所である。
詫間海軍航空隊(詫間飛行場)
②観音寺海軍航空隊(柞田飛行場)
③陸軍船舶幹部候補生隊(豊浜暁部隊
雲辺寺ヶ原実弾演習場(大野腹)