歴史遺産としての「軍人墓地」

 戦後75年に関する「昭和の戦禍」報道もそろそろ下火となり、「令和のコロナ禍」始末に専心努力していくことになる。結局何もしないのがいいという一般庶民の不努力の虚しさ。されば力を尽くして陰ながら現実人間に関わりを持たず過ごすには、人間存在の原罪のような「繰り返される国家間の戦争責任」の糾明であり、その実態記録を残すことである。絶対にあってはならない第三次世界大戦。その気配はないと断言できる人はいるだろうか。東西冷戦の尾を引くような世界の両陣営、それを取り巻く国々の動き。わが国で言えば、北朝鮮や中国の動きとこちら側の疑心暗鬼。他人事ならず、楽観はできない。コロナ禍どころではない、人類の存亡にかかる深刻問題、その危機感がなくて、国任せではいけない。国策の誤りに気が付くかつての日本人全体の失態。

 敗戦体験のある己自身を捨てるわけにはいかない、令和初期に生きる使命は、平凡に過ごした平成の向こうに重く暗く立ちはだかっている昭和のツケを令和の今、とくと反芻猛省すべきものと考える。大げさなことをしでかすことはない。【足元の過去点検】でいい。今も身の回りにある過去の遺物、かけがえのない過去の遺産。値打ちのあるものは遺されていないだろうか。よく見ると、何かがある。私流で言わせてもらえれば、軍人墓地である。日本全国各地に今もあるはず。これを無視してしまっている。見捨てられた戦没者。見殺しにされた戦争犠牲者。「汝、殺すなかれ」とモーゼは十戒で言っている。人を殺すまでにはいかなくとも、仲間まで見殺しにして帰国帰還して、その上、令和になっても見捨て、見放し、見殺しにし、何回殺せばすむというのか。「汝、見殺しにする莫れ」

 誰がどこで身を捨てたと言うのか、分からないにしても、墓前にあってひそかに手を合わせ、刻銘されている文字から無念の思いと感合するならば、それだけでいい。野に晒されて戦後75年無言の墓碑に向かって何かを語りかけたい。せめてどこかの野に山に戦死者の碑(いしぶみ)を見つけ、非業の死を遂げた若者と対話してみたいものである。

 ところが、残念なことに最近とみに軍人墓地から墓碑が消えている。見えないところや無縁仏の中にも入っている。家族や妻の一般墓地にや持ち帰るのも仕方がないが、相ともに戦った戦没者仲間と共同墓地にそのまま残してほしい。昭和の悲劇は軍人墓地に象徴される。誰がどこで亡くなったかが合わせて分かる、歴史遺産としてもそのまま残してほしい。一家、一家族の供養だけではない、永久平和の祈願の対象でもある。

 鎮魂を超え、恒久平和の祈願の対象として遺そう。