戦後75年コロナとの闘い(戦争の影)

 昭和二十年八月十五日以前に生まれた人は後期高齢者。その後生まれた戦後世代の方が大半を占める時代になった。戦後七五年を迎えた令和二年(二〇二〇)全世界的に新型コロナウイルスに席捲されている。人類同士の殺戮から見えない敵に対して共に戦っている。形の変わった第三次世界大戦はこの皮肉な神の制裁掣肘であるかもしれない。
 今ここでそのような不謹慎な言動は避けねばならない。共に手を携えて強敵コロナウイルスと闘わねばならない現在、自粛以外手出しのできない島国日本の片隅に棲息する令和人間にとって、何かをしなければならないとしたら、人それぞれ違う。ここで何の実益もなく、社会的貢献にもつながらない「過去の戦争犠牲者の幻」に目を向ける意味もないに違いない。そのような自覚の上に立って、なおかつ止むを得ぬ信条から、このテーマに固執し追い求めることにしたい。
 さて、身の回りを見てみよう。新住宅の次々建設されていく狭間に、または目にかからないところに墳墓がある。その中に軍人墓碑が見当たらないだろうか。まとまって軍人墓地と分かるところと、一般墓地に少し形の違った戦死墓と見られる石碑が見え隠れしているだろう。大方は無視されているかもしれないし、人によればいつまでも目障りなものかもしれない。
 かつての三豊郡にどれくらいの戦没者がいたことだろうか、と探してみても公式発表はどこにもない。正確には分からない。分かっても今時の個人情報で正式公表できないのだろうか。それを問い詰め、問い質そうとは思わない。当時の三豊郡には観音寺町・豊浜町・詫間町、その他三十余りの村々があった。やがて観音寺市が生まれ、次々周辺が合併、新しく村が町になっていった。そして三豊市の誕生、観音寺市と肩を並べる存在となり、交流と共存が必ずしもうまくいっていない。
 戦争遺跡記録は当然、当時の三豊郡の枠を外すわけにもいかないはずが、独自にやっている感じを受ける。村落単位の運命共同体「三豊郡」意識は薄れている。古来、三野郡・豊田郡と分かれていてこの地域性はしかたはないが、西讃三観地区の結びつきは不可分の運命を担っているはずだ。
 鳥坂を越えれば広がる三豊平野の三豊人、三豊モンローと揶揄される運命共同体。ここに来て分裂ではなく共立協力の姿を取り戻したい。本来の三豊の紐帯は強靭で切っても切れないはずである。

 英霊と言うのも躊躇われる戦没者一人ひとりの墓碑に刻まれた戦没年月日・戦没場所を銘記した墓碑を最も大切にしたい。未来永劫に遺したい。
 全国で三百万、香川県下で四万人、わが我が狭隘なる三豊で六四八〇人
お一人おひとりと対話をしたい。マスクはしません。

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