拙著『風景との対話・渚』近刊作品の意図

 『風景との対話・渚』要点

「三豊干拓の風景」【拓魂】

終戦直後、国土の減少と食糧の不足を憂慮し、三豊干拓が行われた。三豊郡柞田村山田と大野原村花稲の遠浅の砂浜。昭和二十七年から二十八年間要した。周辺住民が親しんで来た故里の海の喪失は口では言えない悔しさがあった。減反の時代、耕作放棄の危機は辛うじて乗り越えて現在に至っている。戦後日本の象徴「三豊干拓の風景」をビジュアルに表現した。

伊能忠敬の海路」【和魂】

今から二一二年前、伊能忠敬は我が故里の燧灘沿岸も測量した。二○○年記念、二一○年記念に有志によって測量体験ウォークを行った。その海道旧防潮堤は今も文化財として遺されている。埋立工事は現代文明の最先端の開発事業として身の回りに及んでいる。ともすると自然海岸・景観美などが黙殺されがちである、開発優先の現代に問いかけたい。

「豊浜暁部隊」【留魂】

昨年、戦後七五年平成二年八月突然小豆島土庄のマルレ(水上特攻)が取り上げられた。実は旧三豊郡(観音寺市)豊浜町姫浜の暁部隊から移動されたものである。姫浜一の宮の松林の中には「留魂像」が建立されている。この部隊「豊浜会」が解散するに当り、その語り部として頑張っている。大野原紀伊のふるさと学芸館にはその資料が展示されている。

「豊浜墓地公園句碑」【詩魂】

国道⒒号線が開通する昭和三十年頃豊浜町姫浜和田浜がほとんど今の位置に移動、豊浜町墓地公園となった。和田浜海岸に沿って約二○○㍍、整然と区画されて、西讃では仁尾町人墓地と並んで模範的な共同墓地。大平総理の墓碑も入り口の丘の上に「君は永遠の今に生き現職総理として死す理想を求めて倦まず斃れて後已まざりき」伊東正義撰の追悼句。