芭蕉💛父の遺言状

 俳聖芭蕉は臨終の時、弟子より辞世の句と望まれ「吾生前の句皆辞世の句ならざるはなし」と言った。自分は常に右の事を念頭に置いてゐた。故に殊更遺言めかしきものはない。生涯の言行、之れ皆遺言と思はれたし。吾今国の為に死す。死して君親にそむかず。悠々たり天地の事。感賞明神に在り。之れが亦最後の感懐である。

吉田松陰の辞世〕が本歌になっている。 

〈五言絶句〉

 吾今国の為に死す 死して君親にそむかず 悠々たり天地の事 鑑照明神にあり

〈短歌〉

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂→豊浜暁部隊の「留魂像」

 芭蕉が本当に芭蕉らしい句を作るようになつたのは、旅に出るようになってから、すなわち晩年の十年である。全てを捨てて旅に身を投じ、芭蕉は開眼し、真の俳諧師になりえたのである。
「旅人さん」と呼ばれる喜びを歌った名句に「旅人とわが名よばれん初時雨」(『笈の小文』)「野垂れ死」覚悟の悲愴さを詠んだ名句に「野ざらしを心に風のしむ身かな」(『野ざらし紀行』)
 旅の途上、元禄7年10月9日客死。大坂の御堂筋での「病中吟」「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(『笈日記』)がある。これが辞世とされるが、芭蕉には独自の「辞世」観がある。
 芭蕉に心酔した文暁は芭蕉の言葉を記録して「きのふの発句はけふの辞世、けふの発句はあすの辞世、わが生涯いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし」(『芭蕉翁反古文』)
 毎日を充実させて生きていると、辞世の句と言わなくても、最後の日に作った句が辞世と言えるのである。したがって、「旅に病んで」の句も、結果的に辞世の句になった。
 この世は無常だからこそ「一瞬を真剣に」生きることの大切さを芭蕉は日ごろの句作に実践したのである。どにでもなれという捨て鉢的「求めない生き方」は誤解を招きやすい。そうではなくて、やはり「老いそのままは、美ではない」「昨日の我に飽くこと」「潔く妄執を捨てること」「心を澄まして変化をとらえること」など芭蕉が晩年の生き方は、今も人々の【晩年力】になると思われる。
 余談・蛇足になるが、私の父は満蒙開拓青少年義勇軍中隊長として北満の地に果てたが、五歳の私宛の遺言状に芭蕉のこの言葉を引用し「今更遺言めかしきものはない。生涯の言行すべて遺言と思われたし。天地神明に恥じず」と誓ってかの地に客死した。浅はかな侵略者だったかもしれないが、芭蕉の生き方をした憂国の志士だった。平成に生き延びた遺児私の中に【芭蕉魂】は今も生きている。