夭折の天才詩人 河田誠一

       夭折詩人 河田誠一  昭和四年三豊中学校卒業 

  若くして亡くなった詩人河田誠一。三中卒業後、早稲田第二高等学院一年後退学している。同窓の田村泰次郎らと同人誌「東京派」を創刊、後に坂口安吾井上友一郎も加わって同人誌「桜」を創刊、盛んに詩作に志したが、昭和八年頃から結核を患い帰郷。高松日赤で病死(昭和九年二月三日・二十四歳)一週間後、田村泰次郎は東京から仁尾まで悔みに来ている。

『夏の終りー放浪詩篇―』は河田が残した唯一の肉筆の詩集で、満十九歳の時のものである。昭和十五年『河田誠一詩集』七周忌追悼記念として草野心平装丁で出版された。田村泰次郎の序文に「あの内海に面した赤土の山ふところの海岸に低い瓦屋根の軒を並べた仁尾の町の、海の匂ひの満ちた酒倉の間の路次や掘割や塩田に鈍い早春のうすら陽の照らしてゐた風景は、生涯私の瞼のうちから消え去ることはない」とある。

 代表詩として定評されているものは定め難いが、よく朗読される詩は

「春」と題されて、束の間のせつなさを美しく奏でる次の短詩がある。

タンサンの泡だつたらう海峡の空は/つめたく暮れた。/なまあたたかいかぜの記憶は/かすんだ雨のなく音。/ボロボロの鳥。/わたしの抱いてねたあなたの肉体は春であつた。

 仁尾へ行っても、河田誠一の詩碑がないので淋しい。それで、私の自家製の移動式詩碑を造り、ここぞと思う所(蔦島の見える丘)に建ててみた。ベニヤ板にペンキを塗ったもので、風雨に耐えるものではない。この粗末な、風が吹くと倒れそうな仮詩碑が、なかなかどうして写真で見ると、風景に溶け込んで感じがいい。

 昨年の夏、早稲田大学が河田誠一の実像に迫る企画展示をしてくれた。「等身大の河田誠一」と題するもので、東京在住の同窓生が参加した。なお、早稲田図書館の担当者が取材に来られて恐縮した。昨年の早稲田大学図書館紀要第六九号に紹介されている。天才(田村泰次郎の賛辞)河田誠一生原稿を多く見出した。口絵には三中校舎玄関が掲げられている。   

 イメージ 1

草野新平装丁『河田誠一詩集』1940年刊