万葉歌に隠された意味

『本当は怖ろしい万葉集』小林 惠子
万葉集』編纂者が密かに語ろうとしている政治裏面史を解明しようとするのが、本書の意図するところである。「短歌に、多くの歴史的事実と、無数の人々の哀歓がこめられている」と言う梅原猛の意見と一致するところでもある。著者のねらいは、この歌集に潜在する歴史的事実を明らかにすることにある。正史である「記」「紀」の欠を万葉で補おうとする試みでもある。すなわち、万葉は初めから政治的意図をもって成立したとの前提に立っている。したがって、この歌集を文学作品として、純粋に鑑賞しようとする人には、拒否反応される類のものである。そういう人からすれば題名の「怖ろしい」ことにもなりかねない。
 まず、額田王は「帰国子女」だったと語り始める。通説では出自不明の額田王、その父舒明天皇百済武王で、父の文才を受け継いで、父娘で万葉仮名を史読する技術を発案したと推測する。史読〈イド〉とは漢文に朝鮮語の文法を採用して朝鮮語で表現したものである。その朝鮮語で万葉仮名を読み解く〈裏読みする〉ことができる。一例を挙げれば額田王の「秋の田のみ草刈り葺き宿れりし宇治のみやこ」の歌は単純な懐古の歌に見えて、実は「避難勧告」の歌だというのである。「新羅は刀を磨いて戦いに備えている。圧迫しないといいのに…」とも読めるというのである。
 更に驚くべきことは「歴代天皇朝鮮半島から渡ってきた」と言うのである。『日本書紀』の天皇に“投影”されている幾人かの王が挙げられている。雄略天皇百済・昆支、孝徳天皇高句麗太陽王百済義・義慈王天武天皇高句麗将・蓋蘇文など。
 推測として“投影”はいいとして、同一人物とされると、はたしてついてゆけるかどうか。それが本書を読んでのお楽しみということになる。納得できるかどうか、それは別にして、追究力の凄まじさに一目置きたい。