会っても合わない

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 会いたいが会わないでいる人が誰にでもあるだろう。もし、その人も自分と会いたいと分かれば、会ってみる気にもなろう。そのことはなかなか分かるものではなく、そのまま時はいたずらに過ぎて行ってしまう。
 愛別離苦、怨憎会苦と言うほどでなくても、好きな人にはなかなか会えないし、嫌いな人にはよく会うというのが世のならいである。好き嫌いで人に会ってはなるまいし、多かれ少なかれ人は自然にそのようになっているのかもしれない。自分に好き嫌いがあるように、相手にもそれがある。大体において一致するが、嫌いな人に好かれ、好きな人に嫌われるところに、人生の悲喜劇がある。
 好きでも嫌いでもない人の方が多い。好き嫌いになる前に付き合いのない人の方が多い。一億二千万のほとんどを知らない。知っている人でも十分付き合っていなくて、無色透明な人の方が多い。
好きな人でも、嫌いになることもあるが、またもとに返る場合がある。ずーっと好き、大好き、好きになってもてあますのは始末が悪い。できれば嫌いになりたいのに、好きという魔性に取りつかれたら、困ってしまう。
 生者必滅、会者定離。会うは別れの始めなりとも言われる。愛し合う人も、早かれ遅かれいつかは別れなければならない定め。生別にして死別にしても、哀しきものなのに、あえて離婚離縁する人の急増する現代の不思議。周囲にその例を捜すのに苦労しない。簡単に会い、簡単に別れることの若者の風潮。それもまたよしとせねばならぬか、それとも責めねばならぬことなのか。
 その人に会っていても、気の合わない人がある。好き嫌いではない。相性である。なぜか相性なるものがあって、せっかくの出会いが進展しない場合が多い。かくして、見合いの多くが立ち消えになる。
 偶然の出会いの中での、適合、合致の例が少ないのは理の当然である。千分の一の確率だと観念するのがいい。運命と感じて盲信して進める人は幸せである。深く考えていると、分からなくなる。出会いを大切にする信仰がなければ、見合いはゴールに届かない。気の合わない人との暮らしもお互いの歩み寄り、もしくは一方の妥協があって、うまく合わしていける場合もある。昔風の結婚生活はかくして、破滅に至らずもちこたえてきた。今は違う。性格等の不一致を理由に容易に別れている例が珍しくない。愛の結晶をも無視して…
 会うと合うは違う。この二語は小学二年生で教える。日本人なら、大人も子供も使い分けができることになっている「あう」を「会う」「合う」と昔から書き分けていたかというと、そうではない。ほとんどが「相」を使い、この字を「会う」「合う」両意に使っている。書き分けるようになったのは、後世である。現代では細分化され「会う」は「逢う」「遭う」「遇う」と使う場合もある。常用漢字にない「逢」は公式には使わない。「遭」「遇」は音だけで、訓は認めていない。
 敢えて使い分ければ、人と出会うも、出遇いがしらに事故に出遭うというアクシデント、これも相身互いということである。