高橋和己の疎開地


                     中学一年生の高橋和
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父母の里 香川県観音寺市愛媛県に近い)
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作家高橋和巳の三豊時代回想記  ~些細な体験の重大な意味~ 
 高橋和巳は、昭和6年8月31日、大阪市浪速区貝殻町に父秋光、母慶子の次男として生まれた。昭和19年4月大阪府立今宮中学に入学、翌20年3月大阪第1回大空襲で焼け出され、母の里香川県三豊郡大野原村四軒屋に疎開香川県立三豊中学校に4月1日から2年生に編入学した。昭和21年10月再び大阪に帰るまで終戦前後激動の1年半を三豊で生活したことになる。大正時代に一家転住していた父方祖父の実家は三豊郡柞田村下出(現、観音寺市柞田町)であった。この地は戦時、柞田飛行場(海軍観音寺航空隊)造営で立ち退きになっていた。疎開してきた者には住み辛い田舎であったが、未知の地での貴重な【土の経験】は、思想作家の【精神土壌】を醸成することになる。以下、この期間に関する文章を抜粋する。
 【三豊時代に触れた随筆5編】 
 ①「無垢の日々」
 ②「わが体験」
 ③「自然への讃歌と挽歌」(河出書房新社高橋和己全集』第12巻随筆)
 ④「わが体験」
 ⑤「国家について」(『人間にとって』新潮社、最後の著作集)

 ①「無垢の日々」は「観音寺第一高等学校新聞」昭和43年11月25日号に発表。原稿用紙9枚に書かれており、「表題は適当につけて下さい」と付記されている。
「私は〈私小説〉型の作家ではないから、自分の体験をそのまま小説の中にもち込むということはほとんどしていない」「敗戦をはさむ教育体系の激変から受けた衝撃や、少年ながらも国家に殉ずべく心の準備をしていて不意にはぐらかされた〈精神のあて馬〉の悲惨などについては幾度か書いたこともあり、その悲哀や憤激を虚構の枠組の中でもらしたこともあるけれども、具体的な当時の生活を作品内の情景として叙述したことはない」
「戦災にあって、着のみ着のままで逃げ帰ったこと自体は辛いことであり、三豊中学に転校しても、自分独りノートも教科書もないという条件が愉快なことであるはずはない。しかし、大阪の下街に育って工場の騒音と煤煙にうずもれ、自然といえば遠足でしかふれたことのなかった少年にとって、二年間の農村生活は、めまぐるしいまでに新鮮で貴重な体験だった」「私はよき人々に恵まれた。ようやく読書欲のわいてくる年齢、ある友人は父の蔵書をほとんど制限なしに私に貸してくれた。その友人の家の立派な書架が、私の図書館であり、ある意味では、私の今日文人としてありえているのは、この友人のおかげである。あるいは魁偉な風貌にもかかわらず、優しく温かな心の持主だった英語の先生。課せられたからではなく進んで学ぶ習性が幾らかなりとも私にあるとすれば、その先生の〈産婆術〉に負うところが多い」
 ②「わが体験」は「潮」昭和46年新年号に発表。
「転校した年、昭和20年の5月に、最初の農村動員があった。中学二年生のときである。たしか同じ村から通う者が、村の鎮守の森に集まり、引率教員も一人、人数はほんの僅かだった。疎開したのが3月の末、転校してまだ間もなくて私は孤独だった。戦災の時、着のみ着のままで逃げたそのよれよれの服、それに母が腰巻を裂いて作ってくれた白いゲートルを捲き、私は隅の方で小さくなっていた。これまで鋤鍬ひとつ持った経験もなく、不安だったのだ。農業担当の教師が点呼をすませると、ほとんど何をするのかも説明せずに中学生の小部隊を率いて田舎道を先導していった。猫の手も借りたい麦の刈り入れから田植えにかけての農繁期。中学生の勤労動員は、国家の施策いかんを超えてありがたかったのだろうが、私はおよそ役立たずの学徒だったと思う」
「第2次の動員は、不幸な形態だった。四国の、雨の寡ない瀬戸内海側の農地に水を供給すべく、20年ほど以前、郡下の人たちが総動員で築いた,山間のダムがその年の秋に決壊したのである。農地は一面に砂地と化し、家屋の基礎の確かでない貧しい農家は軒が傾いた。学校は授業を停止し、最も被害の大きい農家毎に中学生一人ずつが配置された」
「最初、小高い台地に立って、あたりを見回した時の印象は、子供ながらにも、徒労ということだった…全く絶望だ。しかし、一すくい一すくい砂をとりのけていくより仕方がないのだった…私は、その殆ど徒労と言える労作から、後年になって、その意味が自覚される何事かを学んだのだった」
「農村の生活は、いわば一齣の幕間劇のようなものだった。なにか重大なものが、そこにはあったのだが、時間的には農村動員の経験は、幕間劇の中の、劇中劇のようなものにすぎなかった」
 ③「自然への讃歌と挽歌」は「毎日新聞」昭和39年5月10日に発表。
「少年期の一時期を田園の緑に囲まれて生活したことが、非常に貴重な体験だったように回想される。もっとも、その田舎での生活は、戦災とそれにともなう疎開という不運を機縁にしていて、当時は消失したものへの愛情や物資不足に、子供ながらもいらだっていて、田園の美しさに気をくばる余裕は、あまりなかった」
「当時は、たとえ焦土の町でもいいも、早く帰りたいと思っていたはずなのだが、にもかかわらず、回想の中では、不便だった生活が徐々に美化されてゆき、やがて私個人だけではなく、人間全体がなにか間違った方向に進化しつつあるのではないかという気にすらなる」
「私は思うのだが、人間には本来自然的なものから脱出したい欲望と、そこへ回帰したい矛盾した本能とが同時にそなわっていて、他の社会的諸矛盾よりもはるかに奥深く、人間存在の中で、それが格闘しつづけているのではないだろうか。土から離れたがる心と、土にまみれたい、ほとんど官能的な思いと」
「よくもあしくも現代人にとっては、自然への讃歌は同時に自然への挽歌であるより仕方がないのではあるまいか、という気がする。もし真実そうでしかありえないのなら、人々よ、詩人たちよ、そのように自然をうたえ」

 ④「経験について」は「波」昭和35年11・12月号に発表。
「ある時、列車が短いトンネルにーというよりは、道路と交叉する部分で、一瞬目をとざし、そして目をあけると今まで横にぶらさがっていたはずの人が、いなくなっていたことがあった。こういう書き方をすると、その事件自体は覚えていたということになりそうだが、事実はそんなことは全く忘れていて、不意に、トンネルの壁か、或いはその入口にあった鉄の電柱に頭をぶっつけて、一片の紙切れのように人が顛落するイメージが浮かんだ」
「戦災時に何もかも失った私は祖母からもらった女物の腕時計をかけていたのだが、その革の部分が古びていて、ああ、おちるおちると思っている間に、時計が腕から軌道へずり落ちてしまったのである…私は今列車に乗ってきた軌道を、独り枕木を踏み、砂礫の道床を踏みくずしながらもとに戻った。だが、何処へとび散ったのか、行きも帰りも線路を匍うようにして探し、…どうしても帰る気になれず、私はその日、日の暮れるまで茫然と遠景の海を眺め、線路をうろうろしていた」
「手伝いにいった農家で出してくれた手打ちうどんのことを、私は思いだした。大きなどんぶりに、太さのそろわないうどんが山盛りになっていて
…もういいと私は辞退するのだが、若い者が二杯や三杯食えずにどうするかとすすめられ、無理にそのうどんを食っているのである」
  ⑤「国家について」は「波」昭和46年7・8月号(死後発行、遺稿)
「敗戦時、私はまだ中学生だったから、兵役体験があるわけではなく、個人としての経験や見聞も限られていた。しかし、直接自分の五体に傷痕を残すものでなくとも、ある状況下に一定の感情の共有があって、いわば我が事として見聞せざるをえなかった諸事情にも時空を拡げうるなら、私たちの敗戦体験は、単に天皇詔勅を聞いたか否かといった次元にはとどまらなくなるはずである」
「当時は中学校にも僅かながら武器があった。2、30丁の三八銃、一丁あたり数発ずつの実弾、そして銃剣や模擬銃など。敗戦当時、私は四国の香川県観音寺町にあった三豊中学の生徒だったが、校庭の一部に建てられてあった仮兵舎から兵士たちの姿が消えてのち、剣道の胴着や銃剣術の肩覆いをも含めて、それらの武器に油をかけて燃やした記憶がある」 
「闇屋は個人の買出人が女子供である場合など、消極的にではあるけれども、それをかばった。私自身、幾度かリュックサックを背負って、大阪と四国の田舎との間を往復したことがあって、その模様はつぶさに知っている…にもかかわらず、駅に着けば、物蔭に隠れていた警官たちが、どっと襲いかかり、荷物をあけさせ、二升以上の米穀とみれば、無慈悲に奪い去った…いま私は、複雑な感情で以て、その当時のことを思い起すのだが、一見些細に見えるこうした体験には、実は重大な意味がはらまれていたのだと思いあたる」
 ◎これで絶筆となる。死の床に幻影として疎開体験が甦っている。民衆・庶民の立場に立っての優しい眼差しである。そこには【些細な体験の重大な意味】を感じ取る鋭敏な作家精神が伺える。
 本編を書いた3ヵ月後、昭和46年5月3日東京女子医大で39歳の生涯を閉じた。5月9日、青山葬儀場で葬儀告別式(葬儀委員長埴谷雄高)。学生を中心に5000人の参列者があった。