昭和20年頃米軍による日本国内各地に艦載機グラマンによる襲撃を受けたことはご承知のことでしょう。
今夕は香川県西部観音寺海軍航空隊を狙い討ちされた映像が報道されるようです。
我々当時のことを知っている者は次第に少なくなっていくのを残念に思うにつけ、この番組企画を評価せねばなりません。軍用飛行場建設のために強制立ち退き移転の苦渋は言うまでもなく、民間人も狙い撃ちされました。軍人墓地に戦没者は祀られ慰霊されますが、戦災犠牲の国民も草葉の陰に眠っています。
僅か三分のニュースでどれだけのことが伝えられることでしょう。
みとよの戦世を伝える会が発行した記念誌「観音寺海軍航空隊 通称柞田飛行場」
戦後70年を迎え、みとよの戦世を伝える会が記念誌「観音寺海軍航空隊 通称柞田飛行場」を出版した。飛行場建設に伴い、強制移転を余儀なくされた住民や滑走路建設に直接携わった先人が書き残し、散逸していた回想録のほか、新たな戦争体験手記など計約30編を1冊にまとめた。
柞田飛行場は通称で、正式名称は「観音寺海軍航空隊観音寺飛行場」。太平洋戦争末期の1944(昭和19)年4月から、現在の同市柞田町から出作町にかけて全長1500メートル、幅50メートルの滑走路が建設された。
敷地は木之郷町や池之尻町、粟井町にまで及び、約250ヘクタールの農地が買収され、約350戸が立ち退いた。完成を待たずに45年6月ごろから飛行訓練が始まり、終戦当日の午前中も滑走路のコンクリート打ちが行われていたという。記念誌は戦後、柞田小校長などを務めた松尾利夫さん(故人)がつづった「海軍航空隊 観音寺飛行場築営とその後」など、かつて発表された約10人の回想録や、81(昭和56)年発行の「常磐誌」などから抜粋した記述で構成している。「柞田飛行場建設前後と我が家」「勤労動員の思い出」「立ち退き・4歳の思い出」「滑走路引き込み線」と題する文章などを約10人が寄せ、当時を振り返っている。
野口代表は「終戦から70年がすぎ、体験を語る人も数少なくなっているが、今回新たな発見もあった。これで完成ではなく、新しい事実をどんどん発掘していきたい」と話し、情報提供を呼び掛けている。