幻の甲子園

太平洋戦争が勃発し戦争が人々の生活を蝕みつつあった中、昭和17年、突然文部省から「全国的なスポーツ競技会の禁止」甲子園大会の中止が決定された。「幻の甲子園」

 大会期間中にはスコアボード上に「戦い抜こう大東亜戦」と掲げられ、選手のことを「戦士」と呼び、戦い抜く精神を鍛えるために「選手交代禁止」のルールが導入されるなど、軍事色の強いものとなった。

1942年に行われた「幻の甲子園」もこの年には戦況の悪化を理由に行われず、ここから3年間は本当の「空白の時代」を迎えました。その期間に全国の野球部は物資の不足を理由に解散や休部に追い込まれ、それは甲子園出場経験のある強豪校も例外ではありませんでした。