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  【一夜庵】 観音寺市八幡町
 宗鑑は近江の武家の生まれで、若き日に京で将軍足利義尚に仕えたが、義尚の死後、出家して僧となった。山城国山崎に住んで連歌などに親しみ、俳諧の祖と言われている。
 享禄元年(1528)、西国へ行脚し興昌寺(観音寺市)梅谷和尚を頼ってきて、ここに庵を結んで住んだ。  
  上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊りは下下の下の客  
 庵には連歌を志す者が多く訪れたが、この掲示に「下々の下の客」と書かれてあっては、泊まって行きにくくなったが、宗鑑の本心は、かえって泊まって行く客を期待したかもしれない。この歌から「一夜庵」と呼ばれるようになった。
 天文二十二年、八十九才でこの地に没した。
 辞世 宗鑑はどこへと人の問ふならばちと用ありてあの世へと言へ   
 [一夜庵俳句会]
 俳句の祖、山崎宗鑑を偲んで催される句会(参加自由)
一夜庵は、俳諧の祖、山崎宗鑑が興昌寺の境内に結んだ書院造の庵で、宗鑑が89歳で没するまでの20年間、ここに住んでいた。建立は、享禄元年(1528)で、ほぼ原形をとどめている。
「一夜庵」の名は、宗鑑が来客の一夜以上の滞在を許さなかったという次の歌に由来している。
 上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで  一夜泊まりは下々の下の客
 上客は来訪してもすぐに退去し,ほどほどの客は日暮れまで,よくない客は夜までいる。一晩泊まる客は最低の客だという意味。
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 【宗鑑と一夜庵】
 一夜庵は俳祖山崎宗鑑が晩年を過ごした草庵である。室町末期、興昌寺の住職梅谷和尚を頼って、京阪山崎から移り住んだ。遺筆として、当寺に紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付集め趣意書)徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」の短冊等があり、遺品として銅雀台の瓦硯、岩床の花瓶・自作の木彫半伽像
等もある。句碑として前掲短冊句が一夜庵前に建立されている。
 宗鑑が俳諧連歌師として『新撰犬筑波集』の編集に携わったことはほぼ定説になっているが、その閲歴のほどは定かではない。近江国志那郷(現、草津市支那町)出身で幼名弥三郎範重と言い、足利義尚の右筆となったが、その没後無常を感じ二五歳頃出家したと言われる。吉川一郎著『山崎宗鑑伝』によれば、当時宗鑑と名告る人が三人いたと言われ、その区別のしにくいところもある。謡本『百万』の奥書に「天文己亥二月日 宗鑑」とあり、天文8年(1539)頃は生存していたということになる。吉川氏は宗鑑の死没を年までの天文10年までの7月22日とみなしている。その他諸説あるが、地元観音寺市においては「俳家奇人談」の天文22年10月2日89歳没に従い、400年忌を昭和26年10月2日に行っている。
 辞世の歌として「宗鑑はいづこへと人の問ふあらばちと用ありてあの世へと言へ」という歌が伝えられている。滑稽俳諧を事として、深刻ぶらずに生きた宗鑑らしい歌ではある。
『滑稽太平記』(延宝末頃刊行)には「宗鑑は長命成しが、廱といふ物を病て」と説明を付けている。 また、同書には「上の客立帰り、中の客日帰り、下々の客泊がけ」と庵の額に書いておいたと記している。これがいわゆる「上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊まりは下々の下の客」の歌で親しまれる一夜庵の名の由来である。来客の長居を喜ばなかったというのが一般の見方であるが、それでもなお話しこむ客を求めていたのではないかという、うがった見方もある。宗鑑は求めに応じ傭書をよくしている。角地に今も各地に宗鑑流の遺筆が散在している。県下にも少なくとも十数点はある。
 宗鑑没後、一夜庵は荒れるにまかせていたらしいが、江戸時代になり俳人を中心として再興されるに至った。延宝9年(1681)に無妄庵宗実坊が、岡西惟中を仲介として、西山宗因の勧進帳を請い受け、一夜庵造立を企画している。「宗鑑法師勧進帳」は宗因の直筆で、その主旨に賛同・協力し、同門の献句を載せている。三年後の貞享元年には北村季吟の自筆である「一夜庵再興賛」がある。また興昌寺には「一夜庵筆海」という短冊集二冊が保存されいる。約600句が集められている。
  花にあかでたとへばいつまででも一夜庵  西山宗因
  ままよ世は夏も一夜の仮の庵       北村季吟
  松涼し鶴の心にも一夜庵         各務支考
  宗鑑の墓に花なき涼しさよ        高浜虚子
  松の奥には障子の白きに松        荻原井泉水
  浜から戻りても松の影ふむ砂白きに    河東碧梧桐
                    
 現在、観音寺市滋賀県草津市姉妹都市の提携をして、文化の交流を続けている。宗鑑出生の地と終焉の地という因縁によるものである。昭和59年、琵琶湖の葦が草津市から贈られ、一夜庵の屋根が葺き替えられた。