確実な伝記資料が伝わらない。『滑稽(こっけい)太平記』などによると近江の産で、支那弥三郎範重と名のる武士であった。25歳のとき、将軍足利義尚に従い近江守護佐々木高頼を攻めたが、義尚が陣中で没したため剃髪(ていはつ)し、摂津の尼崎に隠遁したという。一休を敬慕すること厚く、しばらく一休ゆかりの山城(京都府)薪の酬恩庵に滞留していたらしく、そこで連歌師宗長と俳諧に腕を競ったことはよく知られている(『宗長手記』)
俗に山崎宗鑑とよばれるように、晩年は山崎に庵を結び、地元の人々の連歌を指導したり、古典や俳諧作品などを書写して頒ち、口を糊した。その癖のある筆法は宗鑑流とよばれ、追随者を出している。油筒を売っていたとか、「上は立ち中は日暮らし下は夜まで一夜泊りは下下の下の客」と書いた額を庵に掛けていたという。その風狂ぶりを伝える逸話には事欠かない。そうした飄逸の境涯は「風寒し破れ障子の神無月」の自画賛に凝縮されている。若いころから連歌をたしなみ、宗祇とも一座した宗鑑筆の連歌懐紙が伝わり、かなりの腕前であったが、洒脱磊落なひととなりから俳諧に本領を発揮した。生前に編んだ『誹諧連歌抄』は『犬筑波集』の名で流布し、守武ともども俳諧始祖の称を与えられることになった。
天文8年(1539)または9年に77-86歳で没したと言われるが、諸説あって定まらない。
宗鑑はいづくへ行くと人問はばちとようありてあの世へといへ(辞世)
宗鑑終焉の地として伝承のある観音寺市興昌寺境内一夜庵では
11月3 日を宗鑑忌として毎年供養している。