国木田独歩「運命論者」終末部

 怨霊のとのみ信じて、二人の胸のまこと苦悩くるしみ全然まるきり知らないのです。
 僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁じられて居ます。けれども如何どうでしょう。のような目にって居る僕がブランデイの隠飲かくしのみをやるのは、はたして無理でしょうか。
 今や僕の力は全く悪運の鬼にひしがれて了いました。自殺の力もなく、自滅を待つほどの意久地いくじのないものと成りはてて居るのです。
 如何どうでしょう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の経過を考がえて見て、僕の心持になってもらいたいものです。これがだ源因結果の理法にすぎないと数学の式に対するような冷かな心持でられるものでしょうか。うみの母は父のあだです、最愛の妻は兄妹きょうだいです。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。
 この運命から僕を救い得る人があるなら、僕はつつしんでおしえを奉じます。その人は僕の救主すくいぬしです。

「断然離婚なさったら如何どうです。」
「それは新らしき事実を作るばかりです。既に在る事実は其めに消えません。」
「けれどもそれやむを得ないでしょう。」
「だから運命です。離婚したところうみの母が父のあだである事実はきえません。離婚したところで妹を妻として愛する僕の愛は変りません。人の力をもって過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力よりのがるゝことは出来ないでしょう。」
 自分は握手して、黙礼して、この不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かにゆうべの雲を染め、顧れば我運命論者はさびしき砂山の頂に立って沖をはるかながめて居た。
 その後自分は此男にあわないのである。