芭蕉との対話

 芭蕉との対話ー芭蕉歌人化ー
           (芭蕉の発句+添句)
 
 芭蕉の発句を立句として連句を巻くことは、古来なされてきたことである。それも現代感覚ではなじめないものとして取り沙汰されることはあまりない。平成も終末に近く、新たな感覚で芭蕉俳諧に挑戦してみるのも意義あることかもしれないと、芭蕉に一声かけてみたい。発句(五七五)に付句(七七)を添えたい。連句作品の方式には従わず、自由に、いわば短歌の下の句を添える感覚である。芭蕉俳人であったが、歌人にしてしまう営みかもしれない。芭蕉発句の気分を付加(添加)するという無謀・不遜な営みであり、顰蹙を買うことは間違いない。
 
 それだけで独立し完成した俳諧・俳句は、ハイク(HIKE)として世界遺産として登録してもらおうとしている文学である。古典作品から現代前衛まで日本独自の短詩型文学とて貴重なもので、それ自体尊ばれねばならない。その物自体に注釈・補足・説明など非文学的なものを添加・歪曲してはなるまい。それを危惧しながらも、あえてここで密かに細やかに四国片田舎から芭蕉ファンの声を届けたい。神聖視され、声もかけられない皇国であり続けた大和にしても中央支配体制とは無縁の自然界の真只中に【風雅】という純粋世界に生きた【誠】の人を身近に呼び寄せたい。声をかけたい。一声かけたい。一句一句に添句をしたい。長生きし過ぎて平成を越えて生きるのも平静でいられない老人の呟き・モノローグであろうか。
 
 手を付けないで見捨てられそうな芭蕉全発句九八八に「もの申す」即ち「語りかけ」をする行為だ。対話と言いたいところだが、その返事はない。それでも、なぜか芭蕉山脈に分け入ってあえて、一声かけたくなる。没後三百有余年、芭蕉と会話した人はいない。ここで我々はあえて無謀なる営みとして眠れる芭蕉に呼びかけたい。対話にはならない一方的な呼びかけに終わるが、発句一句一句に、それだけで独立し屹立している名句・秀句にも怖じず平成末年の庶民が添句するのを許していただきたい。