ものを言うお地蔵様

        私の母
   大久保信子(16歳)がこの箕浦小学校の代用教員であった時(大正時代)、 取材した「ものを言うお地蔵さん」は、後ほどラジオドラマになってNHKから放送される。
  ラジオドラマ「ものを言うお地蔵さん」は亡母の原作になる放送台本である。
 昭和26年、高松放送局の募集したシナリオが7月10日オンエアされた。
  強盗する現場を見られた男が、そこに立っていたお地蔵さんに「わしは言わないけれど、お前言うなよ」と言われ、黙っていたが、とうとう自分から言ってしまうという話し。 口は禍のもと、いつか自分の方がぽろりともらしてしまう。

 一般に地蔵信仰は、江戸時代になって庶民の間に浸透していった。道祖神信仰と結びついて地蔵講なるものが生まれた。地蔵堂に地元の人が集まって般若心経・ご詠歌などを唱える。今でも毎月二十四日(または前夜)信者が集まってくる。村毎、地域毎の連帯感を育てることにもなっている。
  いかめしい建物があることが必ずしも、人を謙虚に、厳粛な気持ちにはしない。ごく自然に手を合わせ、おすがりしたい、祈りたい気持ちにさせるのは、道ばたにさりげなく建てられている「お地蔵さん」ではなかろうか。旅の安全を、縁結びを、安産を、子育てを、自分の身のまわりのことを気軽に、日常的に祈る対象とされてきた地蔵菩薩
 地蔵菩薩は、衆生を救うためのものなのだろう。多種多様な地蔵と現世利益。除災招福のためにいつでも、どこでも、道ばたに「捨て身」で立っている。それが今の私の実感である。
 文化財保護の対象になり、意識的に保護している仏像などとちがって、「野仏」は実にいとしい生き物だ。決して石ころではない。慈愛に満ちて、佇んでいる。立っている。立って人々をその暮らしを見つめている。子どもに危害を及ぼしたりはしない。黙って立っている。その代わり、優しい言葉もかけはしない。
 しかし、ここからが私の言いたかったことである。「ものを言うお地蔵さん」のことである。いつか本誌でも触れたことがあるので、再び書きたくはなかったが、いまは亡き母のラジオドラマに「ものを言うお地蔵さん」という佳作入選作品(高松放送局募集)を供養のつもりでもう一度紹介しておこう。「わしは言わないが、お前言うなよ」と泥棒に口封じした【愛の一言】である。