永井隆著『この子を残して』より

ー大きくなったものだ。もう学校へゆくようになった。あの日、まだ五つだった。近所の子供に「うちのお母さんも死んだんだよ」と自慢していたが。何も知らなかったこの子が、もう字を習うようになる。あの日着ていたもんぺもいまは膝までしかない。しかもすっかり擦り切れている。それがたった一つの母の手縫いの形見だ。もう着られない。この子の五体にまつわって、現に守っていた母の愛の名残りはこれでなくなった。いま兄さんに手伝ってもらって身につけている物はみんな他人の手になったものー。これからは他人の愛情だけに包まれて生きていくのか?ーもろもろの人の情にはぐくまれ、親はなくとも子は育とうが、しょせん血のつながらぬ人の愛情⋯⋯。

 父である私の愛情ひとつでこの子を包みはぐくみたい。ほかのだれの手にもかけたくない。妻よりほかの女の手に、この妻の遺子を触らせたくない。そう胸の中では思いつめておりながら、寝床に就いたきりで、ボタン一つ縫いつけてやれない無念さ!情けなさ!(「入学式」の章より)  こうして父親永井隆は如己堂に寝たきりで誠一・茅乃と暮す。