宗鑑忌(文化の日)

 本日11月3日、宗鑑没後456回忌の法要、俳句会が行われた。
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山崎 宗鑑寛正6年 ~天文22年10月2日)は、戦国時代連歌師・俳諧作者。近江国の出身とされるが、本名・出自については諸説あり定かではない。現在、終焉の地観音寺市興昌寺では11月3日を忌日として毎年供養している。
 宗鑑は、室町幕府9代将軍足利義尚に仕えたが、義尚の陣没の延徳元年の後、出家し、尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。
 大永3年ごろ山崎の地を去り、享禄元年に讃岐国香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからと言われる。
 宗祇宗長荒木田守武などと交流し俳諧連歌を興隆した。宗鑑の連歌作品として伝わるものはわずかであるが、俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集『犬筑波集』があり、自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。
 なお、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。能筆家としても有名で生計は書を売ることによって立てていたと伝えられる。 晩年「ヨウ(できもの)」を患って命を失った。
 辞世は「宗鑑はいづくへと人の問ふならば ちと用ありてあの世へといへ」